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夕焼けについて 小話

 最近、インスタグラムのストーリーでよく夕方の空がアップされているのを見る。私も今この原稿を書きながら時折り空を見上げてゆらゆらと羊雲の揺れる水色の空を見る。なるほど、確かに写真を撮りたくなるような恐ろしく完成度の高い風景が瞳を捉える。


 東の空から西に移動してしまった太陽は最後の輝きだと言わんばかりに熟れた柿の中心部のように空気を染め上げている。雲はそれに反射してさらに明るい薄橙の光をつくっていて、神々しさすら感じる。目線を上にあげて南を見てみるとそこには雲のほとんどない、きりりと冷たい氷の水色の空がある。膨らみきった水風船の表面のような、目の細かい砂嵐のような、微妙に色が組み合わさった南の空は、何もかも吸ってくれるようなそこの知れない空虚さがあった。逃げるように東に首を動かす。


 東の空は西とは違い、目を引くような鮮やかさは無いが、すうと引かれた飛行機雲の上に太陽が残していった桃色の羊が月に集まっている。影のように桃色が雲に重なっていて、油絵の模範的な作品のようだ。写真に収めても、きっとこの空を十分に理解することはできない、小さな四角いピクセルの箱に記号化された色の名称を用いて表現するより、独立した一つ一つの絵の具をパレットに出して、混ぜて、伸ばして、紙に落とした方が、神々の世界をもっと良く映し出せると思う。空に想いを馳せるなら、なるたけロマンチックがいい。

 今日は半月だった。月はいつのまにか空の上にいる。太陽のように日の出も日の入りも人間に対して主張することはなく、ただすぐ上にいつも居る。私たちは太陽にいつも気を取られ、夜になれば朝が待ち遠しく、昼になれば太陽の暖かさを喜ぶ。月の存在はあっても、その始まりと終わりを気にかける人間はほんと一握りだろう。そう意識させているのはもしかしたら月そのものかも知れない。私たちは月に常に関心を持って接近しているのに、彼女はわざと他のものに私たちの目線を移動させる。まるで死期を悟った猫のようだ。私はちらちらと月に目線をやりながら、やがてほとんど水色になった西の空を名残惜しく見つめた。

 秋の夕方は短く、幻想的な空はすぐに闇に飲み込まれる。代わりに月は煌々ときらめき、ポツポツと白い蛍光灯が路地に出現する。星はほとんどみえない。もっともっと、カラスの羽さえ判別がつかなくなるほど闇に飲み込まれた時になってやっと東京の星は輝きはじめる。

それまで私たちは机の前で寒さに耐えながら待たなければならない。

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