下北沢のおじいさん
8月14日。夏真っ盛りの夕方18時。下北沢に降りた若い女が一人。辺りを見回しながら、改札を出てすぐのお手洗いに入る。都会のピカピカに磨き上げられた鏡と手すり。市松模様のように互い違いになった白い壁と鏡はデザイン性が高いだけで、メイク直しには向かなさそうだ。女はスマートフォンを鏡に向け、鏡に映った自身の写真を撮る。腰の曲がった、ふてぶてしい中年の掃除婦ににらまれ、すごすごと後にする。女は好きなインディーズバンドのTシャツを探している。ナビの表示を頼りに狭い入口の古着屋にたどり着く。薄暗い店内と耳に大きな穴をあけた男。唇の銀色のピアスが艶々とライトに照らされている。一枚の安っぽい生地を手に取り、女は会計を手早く済ませた。盗むように小さく服を折りたたんで小さなカンバスバックに詰め込む。店を後にして、ぐるりと下北沢の通りを散策する。楽し気な酒場の笑い声。通りまで占拠する路面店のプラスチックチェアと露出の激しい茶髪の女。髭の生えた小太りの男は大きいヘッドフォンを肩にさげ、唾を飛ばしながら女に話しかけている。薄紫に染まったガラスの灰皿とキャメルのライト・ボックス。裏路地を通り、街燈の少ない道に出る。「SHIMOKITA」と書かれたピンクとパープルのネオン看板の下には曲がった釘と冷たいコンクリート。べとべとした汗にため息が出る。
濃い紫の夜の中にひっそりとたたずむ小さな店。淡い白に光る空間に、老人が一人立っている。薄水色の丸襟のTシャツを着て、店番をしている。首は曲がって顎は前に突き出している。胸は張りネオンの街を一点、見つめている。ピクリとも動かない。目線は前を向いている。正面からの顔は見えない。禿げ上がった頭部と警戒心のないうなじに、痛々しいほどの電灯の光が突き刺さっている。
雑居ビル。2階にはスペインバルとたくさんの若者。あふれかえったゴミ箱、プラスチックの山。這いずり回るセミとつぶれた死骸。
女はポケットからむき出しの1000円札を抜き出して、駅へと向かった。
(ごめんねおじいさん、あなたを助けられないのよ)
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