なにかになるはずだった文章の墓場
手のひらからこぼれてしまった一瞬が一体どれだけあったろう。小さな一瞬の心揺すぶられる衝動を糧に毎日を生きている。
吹きこぼれそうな鍋、ピンク色に染まった空を見た30分後に起こる横揺れの地震、ヒラギノ角ゴにまみれたネット記事、向かいから見える新発売のカフェラテとFAXの未送信レポート。
本当に何もかもが、変わっていく。
私は吹きこぼれた鍋の後始末がわからない。ただ自分の鍋を見つめながら、茹で上がったパスタの色を確認するだけだ。黒くもないし緑でもないから、焦げもカビもないパスタができた。
私はドジでのろまだから、一瞬の景色に気を取られて1時間を無駄にする。いろんな本で得た知識を脳みその端っこから引っ張り出して、組み合わせて、うまくいかずにほっぽりだす。
そうして無くなった好奇心がきっと数えきれないほどある。
通勤バックに毎日入れているドイツ語の単語帳は、もうしばらく開いていない。スケジュール帳のto doリストは、早起きができずに頓挫したままだ。書き留めているメモは、もうこれ以上書ける見込みがない。
それでも、私は私に何かを求めている。
2週間に一回変わる駅の広告、棚に置いてある栄養剤。2分遅れたタイムカード、冷蔵庫から出てきた潰れたベビーチーズ。高架下の伸び切った草に散歩中の園児の赤い帽子。
ほんの一つの情景から絞り出して絞り出して、小さなガラス玉の思考が生まれることがある。
飲み込みながら、溶けていく思考を感じながら、地面に足をつけてみる。足の裏でコンクリートを味わいながらくるりと回ってみせる。
6月の湿った風、いくら目を凝らしてもぼやけて見える兎の影、読みかけのカントと充電の切れたブルートゥースイヤホン。
伸びたヘアゴム、埃まみれのキーボード。買いたてのレコードに九谷焼の灰皿。マギー・ロジャーズのアラスカをバックミュージックに、彼女の黒い瞳に帷が落ちる。
螺旋状に続くはてしない物語を、彼女も楽しんでいる。