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待合室のラッセン

 歯医者での待ち時間中、額縁に飾られている一つの絵に目の留まった。
 クリスチャン・ラッセン。そこに置かれているのはサイン入りのリトグラフのようだった。
 芸術を勉強する以前から知っていた、数少ない画家の一人。もちろん芸人・永野さんの存在も大きい。

 芸術にハマる前まではゴッホと同じぐらいラッセンの名前も知っていたのにも関わらず、美術展に出かけ、芸術を深く学ぼうとすればするほど、ラッセンの作品に触れる機会は少なくなっていく。私自身、展覧会の存在は電車の中吊りで知りつつ、実際にラッセン展に足を運んだことは一度も無い。単純に自分の趣味ではないし、どうしても90年代に問題となった絵画商法の印象もつきまとう。
 そういうわけで、私がラッセンの作品に触れるのは唯一、メンテナンスのために3-4ヵ月に1度通う歯医者の、まさにこの時だけである。ちなみに、この作品がいつ、どのような経緯で購入されたかまではわからない。なんか怖くて聞けない。

 それはさておき、歯医者さんで見るラッセンに対し、そこまでの違和感・嫌悪感はない。それどころか、ラッセンの過剰なまでの「エモ」が詰まったマリン・アートはなぜかカジュアルな待合室の雰囲気に、さも当たり前のように溶け込んでいる。なるほど、人によっては抜いたり削ったりするという時に、たとえばルーベンスの宗教画が飾られていたら「一体何ごと」ともなりかねない(それはそれで見たい気もしないではないが)。
 個人的にはデザイン色の強いモンドリアンなんかもマッチしそうだが、あの場にはラッセンぐらいがちょうどいい…と書くと小馬鹿にした言い方だが、世の中『家具の音楽』(エリック・サティ)というものもある。TPO次第ではラッセンも十分貴重な存在なんだなと、診察室にも飾られていたラッセンを観ながら思っていた。

 歯にフッ素を塗られながらラッセンについて興味が沸き、帰りに図書館で本を借りて読んでいたら、原田裕規さんの「アクアリウムの絵画化」という言葉が目についた。その際、アクアリウムの定義に含まれる水族館が単なる「海洋自然の再現」ではないことを原田さんは指摘する。

 水族館の誕生は、それまで「異界」として海を日常から遠ざけていた人々に対して、豊かな「海のイメージ」を提供するようになった。その結果、人々は「異界」のイメージを膨らませ、水族館に一層の「海らしい海」を求めるようになる。具体的に述べれば、海には「透きとおった青い水、美しいサンゴ礁、魚の大群、サメの襲撃、イルカとの「ふれあい」があることになっているし、むしろそうでなければならない」(溝井裕一『水族館の文化史』)。そのため水族館は、水槽の奥に「編集された自然」を展開するようになった。人々が幻滅してしまう事柄は排除されるようになり、なかでも魚たちの「病気」や「死」がもっとも忌避されたのだ。

原田裕規「クリスチャン・ラッセンの画業と作品」、太字引用者
『ラッセンとは何だったのか?』フィルムアート社より

 ただし、アクアリウムに死が描かれない…というのはあくまでも見る側の視点だろう。実際に魚を飼うとなると、生きている魚のために餌を買ったり定期的に掃除したりと、「死」とコインの裏表である「生」、いうならば現実と向きあう必要が生まれてくる。
 対するラッセンの提供する「アクアリウム」にはほとんどその必要がない。答えはもちろん、絵だからだ。額縁についた埃を拭くぐらいで、ラッセンの絵画の中に生きる海洋生物たちは半永久的に生き続けることができる。餌はもちろん、電力なども一切必要としない。鑑賞者の想像力を借りる形で、ラッセンはある意味究極形ともいえるアクアリウムを作ってしまったのかもしれない(もちろん、ラッセンの"趣味"が鑑賞者に受け入れられるかどうかはまた別として)。

 理想であり、欲望の体現であるからこそ、死生などといった現実から切り離された水槽。言い換えれば、現実逃避的であると言うこともできる。しかし現実逃避をすることは必ずしも悪いことではない。へたに重い現実と一人で向き合おうとして、不安になってしまうぐらいなら、医者を信頼して任せてしまったほうがいいこともある。
 ひょっとしたらそういう性質こそが、あの待合室という場所に相応しい理由なのかもしれない。

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