見出し画像

なくならないから安心して

不幸を使って、書いているのだと思っていた。

昔、こんな風にインターネットに文章を書いていたことがあります。その頃、私は大失恋をした直後で、毎晩毎晩、これまでの思い出やら、相手への恨みつらみやら、そうかと思えば未だこみ上げてくる恋情やら、果ては、この世界の成り立ちへの疑心やらを、今みたいにパソコンに向かってカタカタカタと打ち込んでいたんです。親の仇みたいに必死に。

長年つきあい婚約した恋人に捨てられた。

こうして言葉にしてみると、確かになかなかの不幸に思えるけれど、かと言って、あんなに悲壮な心持ちで日々を過ごすこともなかったんじゃないかなとも思えます。「たいしたことじゃない」と吐き捨てられるのは、ただただ時間の効能かもしれない。でも、一つわかるのは、私はあの「不幸」を「自分で」より強固で確かなものにしたということです。「不幸になった」のは偶然かもしれないけれど「不幸であり続けた」のは私の意志です。私は、自ら不幸であり続けた。主に、「書くこと」を利用して。

最初は心を落ち着かせるために書き連ねていたはずの文章が、やがて私の頭と心と体と毎日を侵食していって、書くという行為に気持ち悪さを感じながらも、それが私の全てみたいな気持ちになっていきました。その時に感じていたのは、私はこの「不幸」を手放すわけにいかないということ。

私は、もう、書くということをやめるわけにはいかないと、どういうわけだか感じていて、そして書き続けるためには、今抱えている「不幸」がなければいけないと思っていました。この「不幸」こそが、私を「書く人」にしているんだと。そして、それでもいつかこの「不幸」を私が手放してしまうとしたら、私はその「大人の私」を軽蔑することにしよう、とそんな風に思っていたんです。

その私が予感していた通り、私は「不幸」を手放しました。そして同時に「書くこと」も。夫と出会い、あっという間に日々は幸せにまみれ、私は何もためらうことなく、喜び勇んで「不幸」と「書くこと」を捨てました。でも、今の私がその私を軽蔑するかと言うと、そんなことは全くなくて。思い返してみても、あの翻し方は、英断でした。私は、全くの勘違いをしていたんです。

幸せになって何年もたって、私はまたこうして「書く人」になりました。最初、私は不安だったんです。今の私は本当に幸せで、だから、あっという間に書くことなんてなくなってしまうんじゃないかと。あるいは、書くために、自分を不幸に近づけてしまったりするのではないかと。

でも、ちがうんです。昔の私も、今の私も、書くために使っていたのは「不幸」ではなかったんです。私が使っているのは、ちがうもの。「孤独」です。「孤独」だけが、私を書く人にする。今の私はそう思っています。そして、この「孤独」は本質的に、幸不幸とは全く関係がありません。私がたまたま、不幸な時に、その存在に気づいただけのことです。不幸は、時々、体と心の感度をあげるから。でも、ただ、それだけのことです。

だから、私は、あの頃の、孤独の膜に包まれたまま、頭から足の先まで不幸にずぶ濡れになって悦に浸っていた私に伝えたい。あなたを取り囲むそれは、決してあなたを解放することはないんだと。その「孤独」はその「不幸」とはなんの関係もないのだと。あなたは永久に、死ぬまで、どんなに幸せにまみれても、孤独なのだと。だから、安心して幸せになればいいと。

かつての私に、それが希望になるのか、絶望になるのか、よくわからないけれど、あなたにだけは伝えたいと思うのです。あなたも私も、本当に孤独だということを。それを思い知るためにも、幸せにならなければいけないということを。

サポートいただけると、とてもとても嬉しいです。 もっとおもしろいものが書けるよう、本を読んだり映画を見たりスタバでものを考えたりするために使わせていただきます。