自覚なき芽吹き
あの日――時子さんが雷に怯える姿を見てから幾ばくかの時が過ぎたが、私たちの関係は特に大きな変化はない。
そりゃ確かに、時子さんの苦手なものを知ったというのは大きな出来事だったけれど、だからと言ってそれ以降何かが始まるわけじゃない。弱みにつけ込んで、なんてことはしないしそもそもできない私は、彼女のその事実を知ってからもあまり変わらずにいつも通りに過ごしていると思う。
それもこれも、時子さん自身があの日に話してくれたのだ。
『私が雷が苦手なこと、常連さんもあんまり知らないの』
その事実にも驚きだったが、話を聞けばなるほど確かに、と頷いた。
曰く、時子さんは自身のことをあまり話さないという。言われてみれば時子さんはいつも私たちの話を聞いてくれる聞き役だったし、自分の話をしているところを思えば見たことがなかった。それは彼女が意図してやっていたことであり、ともすれば時子さんが雷が苦手なことを知る機会もそもそもないわけで。それに、苦手、というより恐怖に近い感情を抱いているようにも見えたあの日を思い出し、自分から進んで話すようなことじゃないのだろうというのはあの日からなんとく想像がつく。
『だから、っていうわけじゃないんだけど……』
ちょっと困った表情を浮かべた彼女は、言いにくそうにしながら言葉を続けてくれた。
『できることなら、これは私とわかばちゃんだけの秘密にしておきたいの』
そりゃもう、私の見たことのない表情で言われた。あまりにもその表情が綺麗すぎてぼーっとしてしまう程で、返事が遅れてしまうくらいには多分見惚れていたんだと思う。なんなら時子さんに「わかばちゃん?」と名前を呼ばれるまでぼーっとしていたことに気づけないくらいには呆然としていたらしく、名前を呼ばれてようやく我に帰った私はあの時恐らくすごく変な声を出していたに違いない。
そんなこんなで、私と時子さんには大きな変化を生む出来事はあったけれど、それ以降何か大きな変化が合ったかと聞かれれば、それはノーと答えるだろう。
「こんばんはー」
今日も今日とて、仕事終わりの疲れた身体で暖簾をくぐれば、カウンター越しの時子さんとぱちりと目が合う。私のことを認めるなりふわりと表情を柔らかくさせてから「こんばんは」といつものように返事をしてくれる。
ちらりと視線を移せばいつものカウンター席が空いているのを確認できたから、そのままいそいそといつもの席を陣取った。
社会人に――ううん、上京してくるまでまさか自分にこんなお店ができる日が来るなんて、思いもしなかった。
「今日もいつもと同じで大丈夫?」
「はいっ!」
慣れ親しんだ会話ののち、いつもの、という言葉で完結するやり取り。すっかりここに馴染んだ自分にちょっとだけ誇らしい気持ちになりつつ、軽く注文を終えて辺りを見回してみる。
年齢層の様々な人たち。しかしその人たちはいずれもここをよく訪れているとよく見る顔ぶれで、ここがそんなたくさんの人たちの憩いの場になっているというのがありありと伺える景色だ。自分もいつの間にかその一員になっていることを自覚して、なんだかむず痒い気持ちにもなってしまうときもあるけれど、それもきっと時間が経てば馴染むのだろうと少しずつ楽観視できるようになってきた。
「あらわかばちゃん、今日はなんかご機嫌ね?」
「あっ、わかります?」
いつもの、と出された梅酒のソーダ割を受け取ると、時子さんから思わぬ声がかかる。そんなにわかりやすいかなぁ、とちょっと困った顔をしてみたけれど、いいんじゃないかしら? と時子さんは笑う。
「今日、先輩に初めて褒められたんです!」
分かられているなら隠す必要はない。そもそも時子さんに隠すことなんてないけれど、自分から話すのはちょっとだけ恥ずかしくて、彼女の方から話題を振ってくれたのは正直助かった。
うきうきな声色で話せば、一緒になって嬉しそうに笑う時子さんが目の前にいる。
「ちょっとずつ……だけど仕事憶えられるようになってきて」
「あら、よかったじゃない」
「はいっ! それで今日は先輩の仕事のお手伝いをしたら褒めてくれて!」
やってる内容はほんとに些細なことだけれど、ようやく仕事らしい仕事ができた気がして、そしてそれを認めてもらえたような気がして、それがたまらなく嬉しかった。その気持ちを早く伝えなくちゃ、と気づけばここに来る足も速くなっていたことは、今は黙っておこう。
「ふふっ、そんなに嬉しそうだとサービスしたくなっちゃうわね」
「い、いやいや! そんなつもりで言ったわけじゃ」
「いいのよ、私がやりたくてやってるだけなんですもの」
そう言って出された小鉢の料理。奥で時子さんのお兄さんが作っているものではなく、時子さんがカウンターで作ってくれる気まぐれのおつまみ。お通しとはまた違うそれは普段なら絶対頼むのに、今回はなぜか忘れてしまっていたのに、時子さんはそれをすかさずサービスだと言って出してくるあたり、ずるいと何度思ったかわからない。
「それでその、もうちょっと話があって――」
「いいわよ。わかばちゃんの話、もっと聞かせて?」
他の人の相手をしながら、という状態でも私との会話を大切にしてくれる時子さん。店内の客層から言って女性で、しかも一人でというのは彼女にとっても気にかけてくれる要因なのかもしれないけれど、たとえそうだったとしてもその好意に甘えさせてもらっているのは私だし、きっとこれからもその好意には甘えるんだと思う。
時子さんにとって少なくとも私は少し気にかけてもらえる存在。それだけで十分だ。
「おいおい、時子ちゃん独り占めはよくないぞわかばちゃん」
そんな話をしていたら隣の常連さんに声をかけられる。お酒が入っても陽気なこの人は、話を聞くのもとっても上手で、時子さんが忙しい時はよく話し相手になってもらっている。
「えー、いいじゃないですかー! 時子さんと話すの楽しいですし」
「それはわかるよぉ。時子ちゃん、聞き上手だからなぁ」
「あら、そんなこと言っても田路さんにはさっきお酒注いだばかりでしょう?」
「ははっ、わかられてたかぁ!」
陽気で快活な笑い声。それにつられて私たちも笑うと、周囲の空気が明るくなる。元々暗い雰囲気のお店ではないけれど、さらにぽっと火が灯るような明るさが伴う。
この空気が大好きで、この空間にいられることが幸せで。
「わかばちゃん」
そしてその中心には、いつだって時子さんがいる。
なんてことない日常の一部。たとえ彼女の苦手なものを知ったところで、その場所にひびが入るわけじゃない。
ただ、一つだけあるとするなら。
「時子さん」
「なぁに?」
「……なんでも、ないです」
貴女が抱えるその思いは、一体誰が支えてくれるんだろう。
願わくばその支える人になりたい、と思い始めたのはいつだったんだろう。
知らない感情が小さな芽を出していたことに、私はまだ気づかないまま。
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