雷鳴と衝撃

 酔いに任せた足取りは、早足のはずなのに目的地にはちっともたどり着けない。それに少し苛立ちを覚え始めたのは、不意に見上げた空模様からだった。
 始めは気が付かなかったのだけれど、ぽつり、と私の頬に一粒の雫が落ちてきたのをきっかけに、少しずつその粒が落ちてくる量が増え始めた。夜空を染めていたのは星空ではなく、暗雲だったと気づいたときにはもう遅く、それは次第に雨脚を強め始めたのである。
 それだけではない。空を恨めしそうに見上げた時、遠くの方でピカピカと雲の間から見えた光。数秒後に遅れてやってくる地鳴りのような音が、遠くの方から聞こえてきた。

「うわっ、雷じゃん……」

 家に帰れていないのだからもちろん傘なんて手持ちしているわけもなく、音もたてずに降り続ける雨を一身に受けながら早く、早くと足をお店の方へと進めた。
 それでもよろよろと酔いのまわった足取りではいつも通りとは程遠く、それでなお自分の中でのいら立ちが募っていく。

「っ……もう!」

 何度も転びそうになる足を叩いて、自身を奮い立たせる。このまま雨に濡れちゃったら風邪をひいちゃうだろうし、何より早く帰らないと恐らく待ってくれているであろう時子さんにも迷惑が掛かってしまう。
 せっかくできた自分の居場所を、こんな理由で失いたくなどなかった。
 そんな一心で歩き続け、ようやく見えてきた見慣れた佇まい。私の思った通り、閉店後だから閉まっている店先に少し肩を落としたが、確かこの家の上は彼女たちがよく寝泊まりしているという話は何度か店内で聞いたことがある。もしかしたらそこにいるかもしれない――と店の裏手に行こうとした、その時。

「あれ?」

 ふと、違和感に気が付いた。
 開いているのだ。店の戸口が。閉店後なのにもかかわらず、ほんの少しだけ。
 不用心すぎないだろうか、と首を傾げた私の酔いは雨のせいですっかり覚めてしまった。だからこそこの戸口に気が付くことができたともいえるが、それにしたって不用心すぎる。仮にも店舗なのだし、空き巣にでも入られたら大変に決まってる。

「……すみま、せーん」

 本来は裏のインターホンを鳴らす予定だったが、予定変更。暖簾のしまわれた戸口から声をかけてみる。――が、もちろんそこにいつものような返事はない。真っ暗な店内が目の前に広がっていて、いつもの明るい雰囲気と違いすぎてドキドキと胸の鼓動がいつもより忙しない。空き巣に入られたらどうするんだと考えたが、今自分が行っている行為こそが空き巣のそれじゃないかと気が付いて、悪いことをしている気分になってばつが悪い。
 早く時子さんに確認して気まずくならないうちに帰ろう、と辺りを見回してみる。だけど店内には人の気配などどこにもなく、夏も近づいているというのに寒気すら感じられるほどの静けさだった。

「と、ときこさーん……?」

 恐る恐る、彼女の名前を呼んでみる。もしかしたら反応があるかもしれない、と期待したのだが、残念ながら私の呼びかけに反応はない。
 がらんとした場所にひとりぼっちの自分。言いようのない不安がこみあげてきて、怖くなってきた。
 その時、だった。

「うわっ!」

 私の背後から放たれた大きな光。目の前を一瞬で眩かせたそれはあまりにも不意打ちの出来事で、驚いて声をあげる。そしてそのまま追いかけるように轟く雷鳴は、地鳴りのごとく私の身体を震わせた。
 思いのほか近いところまで来ていたんだ――とぼんやりと考えていたのは束の間、土間の方からガタン、と音が聞こえた。先ほどの雷鳴で何か物でも落ちたのだろうか、と首をかしげながらも物音がした方へと足を進めていく。
 もしかして既に泥棒でも、と考えたのは遅かったくらい自然と動いていた身体は、土間の方へ向かい、そしてその物音の正体が見えるところまで来てしまっていた。
 そこにいたのは、泥棒でも物でもない。

「……ときこ、さん?」

 震え縮こまる、見覚えのある女性の後ろ姿だった。
 耳を塞ぎ、身体を震わせ、こちらに背を向けた彼女。その表情は身体を縮こまらせているせいで見る事はできないけれど、大方先ほどの物音は彼女からのものだというのは間違いなさそうだ。
 私の気配に気が付いたのだろうか、彼女はそっと縮めた身体を緩めて顔をあげる。その頬には微かに涙の筋が残っていて、どうやら泣いていたというところまで容易に想像がつく。

「ぁ……」

 震えた声は、彼女がそれほどまでに怖がっていたことを物語る。
――しかし、何に?
 次いでやってくる疑問は、至極当然のこと。普段はあんなに大人な彼女をこんなに怖がらせるものは一体何なのか。疑問符が頭に浮かびかけた途端、再び雷鳴が私の背後で鳴り響く。

「わわっ、」

 さっきよりは少し遠くなったかな、と思ったが相変わらず強い光は店内を一瞬眩く照らし――そして彼女が再び縮こまる。先ほどまで私を捉えていた瞳はあっという間に彼女の身体で隠されてしまう。
 もしかして、いや、これはもしかしなくても。

「時子さん、もしかして」

 その言葉を発することは、果たして大丈夫なのだろうか。ただでさえ彼女が震えている元凶を、あえて口にしていいのだろうかと、開きかけた口はそっと閉じられる。
 ない頭をぐるぐる回して、それはすぐに諦めた。少なくとも今じゃなくてもう少し彼女が冷静になってからでも、それはきっと遅くない。
 それよりも、今彼女にしなくちゃいけないことがある。偶然居合わせたのが私だったから、私がきっと。

「……っ!」

 震える彼女の肩に触れ、再び上がる顔。すっかり腰の抜けた彼女の目線に合わせてかがめば、いつもよりも少しだけ近い距離になる。普段の大人の雰囲気を出す彼女は身を潜め、目の前にいるのは〝それ〟に恐怖し、震える一人の女性の姿だけ。普段の彼女とはまったく違った姿で、新鮮と思う気持ちよりも先に浮かび上がった感情は、ただこの目の前の人を安心させたいと思う思いだけだった。

「大丈夫、大丈夫ですから……」

 私の声が果たして届いているのかわからない。だけど震える方をそっと抱き寄せれば、彼女の身体の震えが少しだけ収まった気がした。そのまま何度も彼女の名前を呼び、反応がある度に私がいることを彼女にそっと伝えてあげる。
 私の肩にすっぽりと顔を埋めてしまっているから彼女の顔は見る事ができないけれど、今はそれでもいいと思った。それよりも彼女の震えが早く止まればいいのに、とばかり願ってしまう。
 見たことのない表情。私にとって大人のお姉さんで、頼りになって、私なんかじゃ到底追いつけないと思っていた彼女の、知らない一面。言ってしまえば彼女もまた私と同じ人なんだと言ってしまえばそれまでなんだけど、そんな言葉で片づけていいような物じゃない。片づけられるような感情ではない。
 ……わからない。言葉にしてしまえばあっという間で、あっけなく決まってしまいそうなもので、そんなわかりやすいもので括れるような、単純な感情じゃないことだけは確かだったから。

「私がいるよ、時子さん」

 だから私は、彼女にただただ、声をかける。ここにいると、大丈夫だと何度だって。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?