ほろ酔いの居場所
あの日――野宮さんの所に行くようになってからしばらく。
私の生活に大きな変化はないものの、少しだけその兆しのようなものが出始めていた。
「おーやなぎぃ、なんか最近張り切ってんなぁ」
いつもの間延びした上司の声に対し、はいっ! といい声で返事する。相も変わらず仕事に関して上手くいかないことの方が多いものの、少しずつではあるが目の前にある書類の意味や必要性なんかがようやくわかってきた。同期たちにはまだまだ追いつかない部分もあるけれど、ここまで出来たのだってかなりの進歩だと我ながら褒めてあげたい。
そしてどうやら上司もそれはわかってくれているようで、だからこそこうして声をかけてくれたんだと思う。
「なんか、やりがいでも見つけたかぁ?」
「うーん……そういうわけじゃ、ないんですけど」
確かにやりがいがあった方がもっと仕事に力は入るかもしれないけれど、残念ながらまだ成果らしい成果は自分の力で出せていないのが事実。まだまだ上司におんぶにだっこで、自分一人で全部やるなんて言うのは遠い先の話。今は自分のできるだけのことを精一杯やることくらいしかできないわけで。
「なんだ、にえきらねぇなぁ」
「あはは……」
上手い事返せない自分の代わりに苦笑いと情けない声で返事する。
本当のことを話してしまっても問題ないのだけれど、なんとなく言えない。理由もわかっているのにその対処法を考えていないのは、私が単純になんて言ったらいいんだろう、と考えてしまうからだ。
「……あっ、そろそろ帰りたいなぁ、なんて」
試しに上司にお伺いを立ててみたが、その表情は変わらないが「書類、終わってねぇからなぁ」という言葉のため、私の定時上がりはまたも遠ざかっていく。
……だけど、これも想定の範囲内。どうせ今日の仕事はデスクワーク中心だし、私みたいな要領の悪い人は時間がかかるのは想像に難くない。
今までの私だったら肩を落として、目の前にある書類を睨みつけることしかできなかったけれど、今の私は書類の山を見ても動じることはなくなった。
「よしっ、あと少し」
今一度気合を入れ直して、パソコンに打ち込まれた書類の作成に再び勤しむことに。
いつもだったらその先の予定なんて気にしないくせに、今日は何度も時計に目をやっては早くこの書類を片付けよう、という気になれる。
だって今日は金曜日。明日は仕事も休みだから、この後の予定のことを考えて思わず鼻歌も混じってしまいそうになった。
金曜の仕事終わり、と言えば行くところは一つだけ。ひょんなことから見つけた、一件の小料理屋。入るのにはまだちょっと緊張してしまうけれど、引き戸を開けた先で待っている人たちのことを思い浮かべて、また一つ、頬が緩んだ。
仕事が終わって、時計を見れば午後八時。いつもより少しだけ早く終われて、そそくさと片づけをして向かう先は一つだけ。
駅の繁華街を抜けて、静まり返った住宅街。そこにひっそりと佇んでいるその場所は、初めて行った時どうしてここにたどり着けたんだろう、と思うくらいの所で、住宅街の中にありながら、そこだけ少し浮世離れしている。
昔の私なら気後れして入ることなんてとてもできない場所だったけれど、一度入ってしまえば、そこは気後れする必要なんてないことに気づかせてくれる。
「こんばんはー……」
とはいえまだまだ慣れないこの場所に入る時はどうしてもぎこちなく暖簾をくぐる。引き戸を開ければそこには既に何人か人がいて、和気あいあいとたくさんの会話であふれていた。
初めて来たときは一人だったけれど、本来ここはすぐに人であふれてしまいそうなくらいの活気にあふれていて、きょろきょろと見渡せばちょうど一人分の席が空いているのを見つけた。
「いらっしゃいませ……あっ」
そして私を見つけてくれたのは、カウンター越しに他の人と会話を楽しんでいた女将さんこと、野宮さん。私の顔を見るなり顔を明るくさせて嬉しそうにこちらに向かって微笑んでくれる。
「柳さんこんばんは」
「あっ、どうも……」
「そんな緊張しなくていいのに……空いてるお席へどうぞ」
まだまだ緊張のとれない私を見てふふ、と笑いながら先ほど目をつけていた場所へ目くばせを一つ。それを確認してから席に着けば、隣にいた常連さんにも会釈を一つ。
ここ――『のみや』に顔を出すようになってから数回、だんだんここにいる人たちの顔を覚えるようになってきた。始めのうちは誰が誰だかわからなかったし、酔った勢いで話しかけてくる人たちも多く、どう対応していいかわからなかったけれど、野宮さんの助けもあって少しずつここの人たちとも打ち解けることができるようになってきた気がする。
「柳ちゃんは今日も一人かい?」
隣で既に少し顔を赤くさせている源さんは、私が以前ここに来た時に話をした常連さんの一人。あれからも何度かお店で一緒になる機会があって、少しずつ会話をすることに抵抗のなくなった人の一人だ。
「はい。私の友達とか、こういうところ怖いって言ってこなくて」
「はっはっは、確かに柳ちゃんくらいの子たちは来にくいよなぁ」
「あら、若い子にはあんまり合わないかしら……」
私たちの会話に少しだけ眉を下げて困った顔をする野宮さんに、そんなことないです! と少し食い気味に反応した。
「私が上手く誘えてないだけなんですよ。あと、あんまりここを教えたくなくて」
本当だったら上司とか、会社の人たちとくるのが自然なんだろうけれど、なんとなくそれはしたくなかった。
ここは私の、私だけの特別な場所にしたかった。おいそれと人に教える場所じゃなくて、どちらかと言えば私だけが知っていればいい、とさえ思えるお店だから。
「いやあの、本当は色んな人とかと来たいんですけど! なんかこう、ここは私だけが知っていたい、と言うか……」
上手く言葉に表せない自分がもどかしく、徐々に声がしぼんでいく。そんな私を見て、ふふっ、と口元を抑えながら笑う野宮さんに、眉を下げて苦笑した。
「柳さんにそう言ってもらえるお店になってるならよかった」
「そりゃもう!」
私にとってここはオアシスみたいなものだし、なんなら常連さんたちと少しずつ打ち解けることができるようになってきた今は、私の心の拠り所ともいえる場所だ。
仕事で疲れても、嫌なことがあっても、ここにくれば少しだけ心が軽くなる。
初めて来たときみたいに深酒だけは避けながら、ゆっくりとご飯を食べてお酒を飲むのが私の小さな楽しみ。最近は源さんたちに勧められた日本酒やら果実酒やらを教えてもらいながら飲み比べて、自分の知らない世界が少しずつ広がっているのにわくわくすら感じられるようになってきた。
そして何より、ここには野宮さんがいてくれる。少しおいたをしそうになったらそっと徳利を持っていかれて、「今日はここまで、ね?」と言われてしまうまでがタイムリミット。そのころには私の酔いも程よく回ってきていて、ちょうど気持ちのいい酔い具合で済むのだから不思議なものだ。彼女曰く「初めて来たときに呑ませすぎちゃったから、少しセーブしてあげないと」ということだが、その真意は謎である。
「柳さん、今日はどうしますか?」
「うーん……」
見慣れた達筆な文字で書かれたメニューとにらめっこして、唸る私。いつも食べるものも飲むものも迷ってしまう私を、彼女は今日も楽しそうに見守ってくれる。
小料理屋『のみや』。ここはそんな、仕事終わりの私の心を溶かしてくれる、小さな小さな憩いの場。
私は今日もここで、ほろっと酔うまで相手をしてもらうことにしよう。
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