夢か現か

「落ち着きましたか?」

 どれくらい時間が経ったのか、震える肩が止み始めたころに彼女の声がかかる。涙でこすってすっかり赤くなっているであろう目元を最後に擦って、顔をあげれば穏やかな表情でこちらを見つめている野宮さんがいて、その姿にほっとする自分がいた。
 たどたどしく、ちゃんと自分の気持ちを吐き出せたかは定かではない。だけどなんだか心の中で渦巻いていた感覚がスーっと溶けていったような気がする。

「はい……すみません、なんか急に涙、止まらなくなっちゃって」

 思えば最後に人前で泣いたのはいつだっただろう。我慢することを覚えてからめっきり人前で鳴けなくなってしまっていたことに気が付いて、さらに驚いた。
 この人の前なら、我慢しなくていいんだと思ってしまったのだ。

「いえいえ。きっとそれは、魔法のおかげ、ですね」
「魔法……?」
「そう。柳さんは今、お酒の魔法にかかったんです」

 ぽかんとする私をよそに、野宮さんはなんだか楽しそうな様子で話を続ける。

「お酒はね、普段隠してることを解いてしまう魔法があるんです。これはもちろん加減も必要だけど、間違えなければ普段我慢していることをそっと暴いてしまう、不思議な力がお酒にはあるの」

 私は、そういう人たちの話を聞くのが好きだから。
 そう言って楽しそうに笑う野宮さんの表情がふわふわとした頭の中に自然と入ってくる。それがなんだか恥ずかしくて、気を紛らわせようと再び梅酒に口を突ければ、しゅわ、と炭酸が軽快に口の中で弾けた。

「だから柳さんも、時々はこうやって我慢しないことを覚えるのもいいんじゃないですか?」
「我慢……しないこと?」

 私の質問に頷く彼女。言葉はまだ続く。

「柳さんはきっと、普段から色々頑張っていらっしゃると思うから」
「そんなこと」
「そう言って自分を追い詰めてしまうと、辛くなっちゃうから」

 どこか窘めるように、誰かに言い聞かせるように。私じゃない、他の人へ。
 だけどその言葉は間違いなく私にも響く言葉だ。否定しては見たけれど、その実その通りでその次に言い返すような言葉は浮かぶわけがなかった。
 また一口、ごまかすように梅酒を飲み込んだ。

「そうやって我慢しても、柳さんが疲れちゃうだけよ? だからこうやって、時々お酒の魔法を借りてしまうのも、一つの発散でもあると思うんです」
「そ、っかぁ……」

 ふわふわ、ふわふわ。
 彼女の言葉には力がありながら、私はそれをちゃんと受け止められているのだろうか。ふわついた感覚の中、のどを潤すように梅酒を少しずつ飲んでいれば、ぽかぽかと熱が身体の中でぐるぐると渦を巻く。
 これも、知らない感覚だ。
 今日は初めての体験が多いなぁ、と働かなくなった頭で考えて野宮さんを見ていると、だんだん彼女の顔が見えなくなる。

「あ、れ……?」

 そう気づいたときには既に遅く、私の意識は間もなく遠くへ飛んでいく。瞼がゆっくりと落ちて、野宮さんの顔が見えなくな、って――

「あれ? 柳さん――?」

 私の名前を呼ぶ彼女の声を最後に、私の意識は暗闇の中へと紛れていくのであった。




「んぅ……」

 次に意識を取り戻したのは、あれからどれくらいの時間が経ってからのことだろう。うすぼんやりとする意識をゆっくりと覚まして、周囲を見渡せば見覚えのある景色が広がっている。
 私の部屋だ。そして今いるのは自分のベッドの上。

「寝ちゃってた、かぁ……」

 ぽりぽりと頭をかきながらそんなことを考える。
 ……あれ? 私、いつの間に家に帰ってた?
 普通に受け入れてしまいそうだったそれだが、よくよく考えておかしなことに時間差で気が付く。
 おかしい、私はさっきまで不思議な力に呼ばれるように居酒屋に入って、そこにいた素敵な女将さんと話をしていたはずだ。初めての美味しいお酒を前にペースを早くして飲んでいた気はするけれど、女将さんと一緒に楽しく会話していたのは間違いない事実だと信じたい。まさか夢オチでした、なんてことになったら私は何を糧にすればいいんだろうと、途端に不安な気持ちがこみあげてくる。
 しかしながら、ガンガンとする頭痛は、おそらくあの時の出来事は夢じゃなかったと証明してくれている。気づかぬ間にいつもよりも飲んでいたせいか、いつもはならない二日酔いにどうやら見舞われているようだった。

「うぅ~……」

 一度気づいてしまったら、その痛みがさらに顕著なものへと変わっていく。いっそ気づかなければよかったのに、と涙目になりながらとりあえず水を飲もうと立ち上がる。ぐらりと揺れる自分の身体に、気持ちの悪さも重なって目が回りそうだ。
 ふらふらと覚束ない足取りで何とかキッチンの方へとたどり着く。深夜帯というのもあって周りは暗いし、自分の視界がまだぼやけている。ガンガンと鳴り響く頭痛に頭を悩ませながら冷蔵庫から麦茶を取り出して、一息ついた。

「夢……だった、のかなぁ」

 少しずつクリアになっていく意識に、先ほどの出来事を思い返してため息がこぼれる。
 あんなに夢みたいな時間、本当に夢だったのかもしれない。この頭痛は体調的なところからくるものかもしれない――と思い始めた時のことだった。

「ん……?」

 キッチンの台に、一枚の紙きれが目に入った。深夜帯の暗がりの中、目を凝らしてそれを見て、私は思わず息をのんだ。

『昨日は来ていただいて、ありがとうございました。とても楽しい時間でした。また、いつでもきていいからね』

 紙の端には『料金はちゃんともらってるから安心してね』と書いた相手の名前に『野宮時子』の文字。

「ゆめ、じゃ……なかった!?」

 紙を見て、持っている手が震えている。夢かと思っていたあの時の出来事のすべてが現実のものであるという証明になるこの紙は、私の記憶がないところまで飲んでいて、恐らく彼女にここまで運んでもらったのだ。私のことだから道案内だけじゃなく、部屋まで上がってもらっていろいろ面倒を見てもらったかもしれない。
 それに気づいて、心臓が先ほどとは違う意味で激しく脈を打ち始める。
 えっ、どこまで私しちゃったんだろう。記憶がなくなるまで飲んだことないから、どんなことをしでかしたのか、皆目見当もつかない。

「ひぃ……」

 誰もいない部屋の中で一人、さっきまで夢現だった意識がはっきりと目を覚ます。
 そして一番に思い立った感情、それは。

「謝らなきゃ……」

 絶対、私何かした。
 そもそもここまで送ってもらっている時点でかなり迷惑をかけているけれど、これだけ記憶がないとなると多分それ以上に迷惑をかけるようなことを店内でしている気がしてならない。真実のすべては彼女――野宮さんのみぞ知る出来事なのがさらに厄介で、真実を知るためにはあのお店にもう一度行くしかない。
 手繰り寄せる記憶。それはあの場所に行った時の経路だった。

「次いったら、謝ろう」

 改めて自分に言い聞かせ、布団へと再び向かって行く。
――不思議と、心は軽かった。
 あれだけ落ち込んでいた気持ちはどこへやら、今私の中にある感情はと言えば『謝らないと』という自分への決意と、『仕事、もう少しだけ頑張ろう』という前向きな気持ち。
 記憶が曖昧になってから、私と彼女の間にどんなやり取りが交わされていたのだろう。記憶はなくとも前向きな気持ちになっているところからして、多分私は相当野宮さんに話を聞いてもらっていたに違いない。
 そのお礼もかねて、次がある。


 出会いや始まりは本当に突然で、そしてそれは何が起こるかわからない。
 きっと人生って、そんな偶然の重なりで出来ている。

 これはそんな、私と野宮さんの偶然の重なりが始まった、ある夜の出来事。

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