くぐり慣れない暖簾

「またいらっしゃっていただけて、嬉しいです」

 店内に通されてから、微笑まれる。その笑顔があまりにも綺麗で見惚れてしまうし、きっとその顔はかなり呆けていたのだろう。私の顔を見るなり野宮さんはくすくすとまた笑ってくれた。

「そんな驚いた顔しなくていいのに」
「いや、でも、だって」

 先ほどのことを思い出し、再び私の頭は混乱しかけていた。
 先日初めて来たときに厨房にて小さな声で話しかけてくれた人。私はさっきまでその人に詰め寄られそうになっていたし、まさかその人が野宮さんのお兄さんだったなんて。言われて見れば、並んでみれば確かに面影はあるけれど、あんなに愛想のいい妹さんにこのお兄さんとは誰が思うだろう。

「兄はあまり話が得意ではないので」
「……む」

 いつの間にか野宮さんの隣にいたお兄さん――洋貴さんに私は肩を震わせる。いつからいたのかと目線で訴えてみるけれど、残念ながら私の疑問が返ってくることはなかった。

「驚かせちゃったならごめんなさいね。でも、悪い人ではないから」
「それは、わかりますけど……」

 事実、私は別に何もされてないわけだし。そうは思うけどいかんせん目の前のお兄さんの変わらない表情に、こちらはおっかなびっくりだ。話しかけようとしても表情が変わらなくて何を考えているのか全く分からない。

「ほら、兄さんも柳さん怖がらせちゃだめよ?」
「うむ……」

 野宮さんに言われ、少しだけ困ったように眉を下げる。心なしか声色も弱弱しくなった気がする。

「い、いやいや! 大丈夫ですよ……?」

 若干声を震わせながら答えれば、そうか、と少しだけ雰囲気が柔らかくなったような気がするお兄さん。恐らくこれがこの人本来の雰囲気なのだろうけれど、変わらない表情がそれを隠してしまっているように思える。

「夜の仕込みをしてくる」
「ありがとう。私も後で合流するわね」

 簡単なやり取りを済ませ、お兄さんは厨房の方へ戻っていく。その背中を見送ってから、野宮さんは再び私の方へと振り返った。

「悪い人じゃないのだけれど、あの強面で何かと損することが多くって」
「あはは……」

 否定しきれないそれに、私は乾いた笑いで返事をした。
 そんな私を見て困った顔をした彼女だったけれど、それは本当に一瞬で、次の瞬間には話題を変えるようにそういえば、と再び視線を向けてくる。

「今日はどうされたんですか?」
「……あっ! そうだ!」

 彼女に言われてはたと気づき、大きな声が上がる。少し驚いた様子を見せた野宮さんだったが、私の話を聞こうと首をかしげてからどうしたの? と問いかけられた。

「この間、本当にありがとうございました……」

 これ、この間のお礼とお詫びに。
 そう言って差し出したのは、この辺で美味しいと評判のお店で買ったお菓子の詰め合わせ。上司に何かお土産を持っていきたいのだけれど、と相談したら個々の名前が挙がったので、ここに来る間で買ってきたのだ。決して安くはなかったけれど、あの時のことを思い返せばこのくらいはまだまだ安い方だと思う。

「あら、別に気にしなくてよかったのに」

 お土産を前に、野宮さんは少しだけ困った顔を見せる。いやいや、と私が強引に渡すと、渋々といった様子で受け取ってはもらえた。だけどその表情は相変わらず申し訳なさそうで、渡したこちら側も気まずい空気になってしまう。

「でも、きっといろいろご迷惑を……」
「あら、もしかしてこの間記憶がなかった?」
「お恥ずかしながら……」

 ありのままを答えれば、あらあらと少し楽しそうな声が返ってくる。何をやらかしたのかと震えていると、私の考えがわかったのか、大丈夫ですよと続けてくれた。

「特に何かあったわけじゃないですよ」
「でも、家に置手紙が……」
「ただ少しよろめいていたのでお送りしただけで、何かあった、というわけじゃ」
「それですよ! それが申し訳なくて……」

 やはり、自分が考えていたことは間違いじゃなかった。初めて会った人に、そんなことをしてしまった自分が本当に情けなくて、また泣きそうになってしまう。

「気にしなくていいんですよ。私がお送りするって言ったんですから」
「でも、」
「それに」

 またこうして、来てくださったから。
 そう言って私の言葉を遮る野宮さん。ついでににっこりと微笑まれてしまえば、出るはずだった次の言葉は喉の奥で溶けて消えていく。

「私はまた柳さんにお会いできて嬉しいんですよ?」
「うぅ……」
「こんな店の佇まいですから、柳さんのような方がいらっしゃるのが私も新鮮なんです。だからそんなに気になさらないで?」

 ね? と微笑まれてしまえば、もうだめだった。
 返す言葉も浮かばなくて、押し黙る私。微笑んで私を見守る野宮さん。
 互いの間に流れるのは沈黙だというのに、なぜだかその沈黙はとても心地いい。

「あの――」


「おーっす、時子ちゃん。もうやってる?」


 言いかけた私の声は、ガラリと引き戸が開いた音でかき消されてしまう。そして次いで入ってきたのは見たことのない人。……いや、私ここにきてまだ二回目だから知らない人しかいないけど。

「あら、今日は随分お早いんですね」

 対して野宮さんはその人を歓迎するように微笑むと、私の隣の席へ案内する。どっかりと座ったその人にぴくりと肩を震わせると、私のことに気が付いたのか、おぉ、と太い声が返ってくる。

「珍しいじゃねぇか、何だ? 時子ちゃんの知り合い?」
「いえいえ、この間いらっしゃってくださったんですよ」
「ほほぅ、若いのに大したもんだなぁ」

 私をおいて、二人で会話が続いていく。かくいう私は何も言えずに固まったままだったが、そんな様子を見てそんな肩に力入れるところじゃねぇぞと笑われてしまった。

「ここは息を抜く場所だ。そんなかたっくるしい格好してたらこっちも疲れちまうもんだぜ」
「す、すみません……」
「別に謝る必要はねぇよ。まっ、俺が言ってもしゃーねーか!」

 がっはっは、と大きく笑うその人に、私は小さく苦笑いを浮かべる。
 初めて会った人なのに、すごくフレンドリーに接してくれる人だ。こんなに距離感が始めから近い人に出会ったのは、自分の故郷での時くらいかもしれない。

「ほら源さん、あんまりその子をいじめないであげて?」

 野宮さんの言葉に、源さんと呼ばれた隣の人はすまんすまんと笑った。
「俺もあんまりこの世代と話す機会がないもんでな、つい浮かれちまったよ」

「もう……ごめんなさいね、紹介もまだだったもの」

 野宮さんが私と隣の人を交互に見やって、改めて紹介してくれた。

「こちら柳わかばさん。この間うちにいらっしゃって、今その時のお話をしていたところなの」
「柳わかばです、あの……よろしく、お願いします?」

 軽く会釈をすると、笑いながらよろしくな、と言ってくれた。

「こちらは常連の源さん。この近くで工場を営んでいらっしゃって、時々仕事終わりにこうして来てくださるの」
「ここには時子ちゃんの顔を見に来てるようなもんだからな。来ないと調子が上がらねぇからよ」
「あら、上手いこと言って」

 交わされるやり取りはとても自然で、この人がそれだけこの場所に足しげく通っていることは手に取るようにわかった。私と野宮さんの間に流れる空気とは違うそれに、羨ましいと考えたのは刹那のことだった。

「せっかくですし、簡単なものでもお出ししますね」
「おっ、いつも助かるよ」
「いえいえ。柳さんもいかが?」
「あっ、じゃあご一緒させてもらおうかな……」

 こういう輪に入るのは得意じゃなかったけど、せっかく社会人になったのだし、こういう人たちとの交流はとても新鮮だ。
 上京してから友人も遠くなってしまった私にとって、この場所が私にとって新しい場所になるかもしれないと、この時から多分感じていたことなんだと思う。
 時間が流れて、この場所が私にとって特別になるまで、あと――――

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