聞こえない轟き
私が『のみや』へ通うようになってそこそこの時間が過ぎた。
今まではそれこそ緊張してはいるのにも躊躇いがあった私だったけれど、数を重ねていくうちにその敷居は少しずつ下がっていった。知っている人の顔も増えてきて、話をしていると他の常連さんも会話に混ざってきてくれたり色んな話を重ねていくうちに私もいつの間にかその輪の中に入っていたようだった。
「おっ、わかばちゃんじゃねぇか」
その証拠、というわけじゃないけど最近は店に入れば下の名前で呼んでくれる人も増えた。同時にここに来たらスッ、とさっきまであったモヤモヤもゆっくりと溶けて、ここの温かな空気に馴染んでは消えていく。まるで心をリセットしてくれるようなここは、私にとってかけがえのないものになりつつあった。
それに何より、ここには私を少しだけ前に進ませてくれた人もいるから。
「あら、わかばちゃん。いらっしゃい」
「時子さんこんばんは!」
カウンター越しに挨拶をしてくれるのは、ここの女将で私の心の靄を払ってくれた張本人。以前までは店名と同じ名字の『野宮さん』と呼んでいたのだけれど、数を重ねていくうちに打ち解けてきて、お互い名字で呼び合うのは少しよそよそしいと感じ、ある時から自然の流れでお互いの呼び方がいつの間にか変わっていた。それに対して周りも冷やかすわけでもなく、いつも通りの空間が流れていたのが印象的で、同時にここではそれが普通なのだと通っている間に徐々にわかってきた、この店の空気感だ。
「今日はどうします?」
「んー……」
いつもの席について、もらったメニューに目を通す。書いてあるのは常設しているメニューはもちろん、その週にしかない特別なものまで、多種多様な内容の料理にお酒を前に考えてしまうのは贅沢で楽しみな時間の一つ。
今日も今日とてたくさんのメニューに目を通しながら考え込むこと数分。
「やっぱり、時子さんのおすすめでお願いします」
困ったような視線で訴えれば、ふふっ、と微笑まれる。
「わかばちゃん、いつもそれね。好きなものでいいのよ?」
「時子さんがおすすめしてくれる奴が好きなので!」
キラキラとした目で見つめれば、ちょっとだけ照れた顔をしながらはいはい、と往なされる。周囲の人たちには温かい笑いで満たされる。
これも、いつもの流れ。そしてこれは、私にとって何よりもホッとできる時間の始まりである。
「じゃあ今日も、飲みすぎないようにね?」
「はーい!」
なんだかんだ言って時子さんがそのタイミングを見つけてくれるくせに、なんて。
「そろそろ他人任せじゃ駄目よ?」
私の考えなんて目の前の彼女にはお見通し。じっと見られてそう指摘されてしまえば私は返す言葉もなくしょんぼりと眉を下げた。
「そんな顔してもだーめ。今日は一層気を付けてね?」
「はい……」
改めて釘もさされたところで、何も言わずとも出してもらえた梅酒のソーダ割で喉を潤せば、金曜日の夜がゆっくりと始まりの合図を告げた。
時間が過ぎるのは本当にあっという間で、ゆっくりと飲んで色んな人たちと話をしていたら気づけば帰る時間が近づいていた。
「そろそろ帰ろうかなぁ……」
程よく回ってきたお酒。今までだったらまだもう少し、なんて駄々をこねていたかもしれないけれど、さすがに飲む回数と自分の酔い具合が少しずつわかってきたからか、これ以上はダメだと身体のシグナルを感じた。これがいわゆる止め時なのだろうと時子さんに視線を送れば、ゆっくり微笑んでそうね、と返される。
「少しずつわかってきたかしら」
「なんとなく、ですかね……」
「なんとなくでいいのよ。これから時間はたっぷりあるんだから」
そう言って出された会計の金額もいつも通り。前に一度安すぎないかと聞いてみたけれど、そんなことないの一点張りで返されてしまったし「わかばちゃんが美味しそうに食べてくれるのを見させてもらってるから」と言われてしまえばそれ以上何も言えなかった。
時々思うけど、時子さんは私に少し甘い気がする。
そりゃ確かにこの店で私くらいの年代の子が来たところは見たことないし、物珍しさはあるのかもしれない。だけど、それはそれ、これはこれだと思う。私はこの時間も含めて貴重なものだと思っているのに、なんて言いたくなってしまうのは間違いではないはずだ。
とはいえ、何も言い返せるような言葉を持ち合わせていないのが事実だけど。
「もう少し、飲めるようになりたいなぁ」
「それはこれからだし、無理はダメよ?」
「はぁい」
今日のお代を払いながら交わす言葉は他愛ない。後ろではさっきまで賑わっていた席だけが残っていて、店内には私しかいなかった。いつの間に帰ったんだろう、と思うけれど大方私がほろ酔いだしたころには続々と帰っていたような気がするし、しない気もする。
曖昧な記憶は考えるだけで頭が痛くなるので、考えるのは早々にやめた。
「それじゃあまた」
「ごちそうさまでしたぁ!」
ひらひらと手を振りながら外で見送ってくれる時子さんに笑顔で返して、店から徐々に離れていく。家までの道のりはもう勝手知ったるもので、始めのうちは自分の家がどちらの方面かわからなくなって地図アプリに頼ってしまうこともあったけれど、通い慣れた道ともなれば迷うこともない。
――しかし、その日はちょっとだけ違って。
「……あっ」
それに気が付いたのは、あと数分で家に着く、といったところだった。
ポケットに手を突っ込んだけれど、お目当てのものが入っていない。たくさんのキーホルダーを付けた家の鍵が、ポケットに入っていなかったのだ。
「お店に置いてきちゃったかな……」
働かない頭で考えるのは、そんなことだった。
そう言えば店の中でそのキーホルダーの話になって色んな人に見せて自慢して、そのままだったかもしれない。時子さんのことだから私が忘れたのに気が付いて、先んじて保管してくれている可能性もある。それに何より、あれがないと家に帰れないのだから一旦戻るほか選択肢にはないわけで。
「行かなきゃ」
そうと決まればさっきまでの道を戻るのは早かった。気持ち駆け足気味なのは彼女が完全に店を閉めてしまったら大変だし、そもそも家の鍵だとわかっていたら帰ってくることを想定して待ってくれているかもしれない。
もちろん待たせるわけにもいかないからと、次第に足取りはどんどん早いものへと変わっていく。お酒の入った足取りは少しだけふわふわとして覚束ないけれど、向かう先は頭よりも体がよく覚えてくれているから。
戻る道のりの空に暗雲が立ち込めていることに、酔っている私は気づかない。
そして何より、遠くの方から聞こえる小さな轟きは、酔った私の耳には到底届くわけもなかったのだ。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?