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近世百物語・第三十八夜「十二月十四日」

 十二月十四日は、赤穂浪士の討ち入りの日です。一年には色々な記念日がありますが、この日くらい様々な物事を思い出し、そして考える日は稀です。この日は、私にとっては特別な日です。前にも書きましたが、私の祖母は赤穂浪士の子孫として生き、そして死にました。その祖父である曾祖父(祖母の祖父を正確には何と呼ぶのか知りませんが……)は、立派な、そして最後の武士らしい武士であったそうです。
 その曾祖父は、まだ北海道が蝦夷えぞと呼ばれてた頃、父と共に入植し、昭和新山がまだなかった頃からその土地に住んでいました。
 当時は、集落と呼ぶほどの規模しかない村があり、まだ蝦夷地のあちこちにいたアイヌ人達を侵略していました。
 曾祖父の世代は、
——開拓のために戦っていた。
 と言っていたようですが、その是非は別として、侵略以外の何ものでもないと思います。
 家は粗末なもので、むしろをかけただけの入り口には、時々、熊が入ってきては食べ物をあさっていたそうです。
 祖母は霊的な物事についてよく話してくれました。祖母は一族の中で最も霊的な感性を受け継いでいて、それは母に遺伝し、そして私に遺伝しました。一族のすべての者がその遺伝を認め、霊的な物事を信じない身内ですら、祖母や母や私の感覚が特別なものであることを理解しています。
 祖母は、赤穂浪士の子孫として吉良家側の祟りを受け、長い病の末に死にました。他の霊媒師が祖母に、
「先祖の殺した人々が祟り、この病をつくっている」
 と告げ、
「先祖の墓を見つけ供養するように」
 と言いました。祖母は、もちろん、そんなことはすでに知っています。
 曾祖父は、当家が武家であることや、播磨陰陽師としての伝承を祖母に教えていましたが、それが何という名前を持った家系であると言うことを言わなかったそうです。
 それは、播磨陰陽師たちが、
——新政府から追われ、内地から逃げる必要があった。
 からのようです。家系や身分や正体を明確にしないことが、
——明治政府・官軍の追跡から自分達の子孫を守る。
 と思っていたからのようでした。
——当家は戊辰戦争の敗者であるが、いつか必ず武家が蘇えり、当家の子孫の者が武家らしい生き方の出来る時代が来る。
 と、曾祖父は死ぬまで信じていました。
 それから百五十年あまり過ぎ、とうとう二十一世紀が来てしまいました。人が人らしく、そして武家は武家らしく生きることの出来る時代は、その新しい世紀に訪れてくれるのでしょうか?
 祖母は、祖父である曾祖父から様々な口伝を受け、
「子孫の誰か、能力のある適切な者にそれを伝え残すことを誓ったんじゃ」
 と言っていました。
 その口伝を私が受け取る事となったのは運命なのか、それが私の存在する理由なのか、すでに死んでしまった祖母や母達に聞くわけにも行きません。
 祖母は、霊的なものをかなり適切に理解していました。様々な霊現象について、その世代の人間が知っている以上によく知っていたのは、播磨陰陽師として当然だったかも知れません。それは曾祖父から伝えられた口伝による所が多いのですが、それを孫である私にのみ伝えることを楽しみにしていました。
 一子相伝なので、ほかの従兄弟たちには伝えていません。
 それらの知識は、
——能力を持つ、たった一人の子孫にのみ伝えることが条件であった。
 と聞ています。
 祖母の見ていた霊的な世界はどう言うものであったのでしょう?
 と思うのは、祖母には吉良家の怨霊が時々見えていたようなのです。
 祖母の死を聞いて実家へ戻った私は、葬式に間に合いませんでした。北海道は今でも遠く、生活に余裕がない限り、おいそれと行き来出来る場所ではありません。
 祖母の葬儀が済み、火葬場から骨が焼き上がった時、ようやくその場所に着きました。少し熱くなった遺骨が、ちょうど火葬されて出てきた時、私は奇妙な感覚とともにその遺骨を見ました。
 私は、誰かれかまわず葬儀に行くことを避けています。親しい人間が死んだとしても、葬儀に行くこと自体、稀です。それには理由があります。
 葬儀の行き帰りに、あるいは葬儀の最中でも、死んだ人がその場を漂っているのを見るからです。どうにも堪えられないのです。その人が、死んでしまったことより、本人の持つ悲しみが伝わってくることが堪えられないのです。
 辛く悲しい思いが残り、人の姿をしてじっとこちらを見ているのを感じると、捨ててしまった筈の人間らしい感情が蘇って来ます。そして、その感情を制御出来ないことが、霊を扱う者として強い厄を造り出すことをよく理解しています。
 祖母の遺骨は、やはり、強い感情を刺激しました。その所為せいで夢を見ました。その夜から、今でも時々見ては、怖ろしさに目覚める悪夢がはじまることとなります。
 夢の中で私は暗闇の中を歩いています。山道らしく、遠くに少し明りが見えました。
 ふと、
——こんな夜中になんだろう?
 と思いながら近付くと、老婆が大きな鍋を火にかけて食事を作っています。
 気づいた老婆は、私に、
「食事でもどうかね?」
 と、尋ねます。
 鍋の中からうまそうな匂いが漂い、鍋のふたを開けると、そこには人間の腕が浮かんでいます。
——人肉を料理しているのか
 と思いましたが、肉はとてもうまそうに思えます。そして私は、肉に手を出そうとするのです。心は必死で止ようとしますが、強い誘惑に勝てそうにもありません。
 老婆が、
「これを食すれば、人ではなくなるが、それもまた良し」
 と、つぶやき笑うのです。
 夢はいつもここで終わります。
 人であることと、人ではないことの境界線は、ここにあるような気がします。その時、感じる強い感情や葛藤が、怖ろしくも喜ばしく思える時があります。それを思うと、何か激しくも理解不可能な感覚が発生し、自分の中で処理しきれなくなるのです。

——霊的な物事を扱うも、扱わぬも、日々、常に冷静でいることが肝要である。

 と、口伝を思い出しては自分を戒めるのみです。

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