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怪しい世界の住人〈天狗〉第九話「山姫に出会った話」
今回は無料です。
——やがて山の中に百町ばかり入った。山の中の景色は麗しく、鉢を伏せたようにまわりに峰が八つ立っていて、登ると檜が竹藪のように生い茂っている場所があった。
その中のひとつの檜の茂みの中に大きな竹の又のような場所が見え、そこにこの三鈷が打ち立てられていたのだ。これを見ることの喜び涙を流すこと限りなく、
「これこそ神仏のお導きだ」
と嬉しくなった。
この時、弟子のひとりが、
「この山人は誰でしょうか?」
と訪ねたそうです。
すると弘法大師は、
「丹生の明神だと思う」
と答えました。この神は今の和歌山の天野の地にある丹生都比売神社の神のことです。
そして、弘法大師は、
「犬飼いを高野の明神と言うのだ」
と言い残し、その場を去ったそうです。
北九州に伝わる伝説の中にも、山姫と呼ばれる〈山神〉のひとつに出会った物語があります。その話は門司図書館が戦前に編纂した『門司伝説集』に掲載されています。その物語によると……
——吉志の花房と言う所に宗次郎と言う近郷きっての豪胆な鉄砲撃ちがいた。
「この宗次郎が筒口を真っ直ぐ天に向けて放つと、その飛び出た弾は、また元の銃口に落ちて戻って来ると言うほどの手練れだった」
と語り伝えられている。彼は昼は割り木を割ったりタバコを作ったりしている。
里人らが、夜なべを終わって足を洗う盥を片付ける音がすると世間はまったく沈黙の世界となる。
ある夜、裏山の絶頂、天ヶ戸と呼ばれる所へ夜待ちに行った。
ここは山のテッペンで、昼間は周防灘を眼下に見下ろし、また、遠く豊後の小富士や文殊山なども雲煙縹渺の間に見える絶景の地であるが、人里から離れること、三、四十町もあり、夜には怪獣跋扈し、梟声、暗を破って時に聞こえると言う一種の神秘境とでも言うべき所であった。
宗次郎はいつもの鳥屋に入り火に暖まりながらウトウトとしていると、何とはなしに胡散臭い気配を感じた。
——ははぁ、今夜は、ちと、様子が変ちゃ。
と思いながらつとめて眠い目を緊張させて前方を注意していると、ひとりの美しい女が現れて微笑みをたたえ糸車を挽いている。そして訳は分からんが良い声で歌っている。その女は、かれこれ、十五、六間もあろうかと思う向こうの方にいた。
——イノシシでも出て来りゃ良いのに、これは、したり。はて、どうしたものか?
と考えてみた。
長い間、深山に入り、幽谷を渡って山には十分慣れている宗次郎も、これまで出会ったことのない奇怪な今夜の有様。
——やれやれ、こうなりゃ、ひとつ撃ち放とう。
と決心した。
やがて、ズドンと一発、女の顔を撃ち抜いたであろうと銃口の煙の散る間から眺めると、何のこともない微笑みをたたえた笑い顔。糸車の響きと歌は元の通りである。
——こりゃ、しもうた。
と手早く装填して、次から次へと撃ったが女の姿は元の通り。
宗次郎は、
——今は、これまで……。
と覚悟を決め、最後の一発を用意し胸の動悸をおさえて、よく狙いを付けて撃った。
かの時速く、女は宙を飛んで来て、宗次郎の鉄砲を奪い取り、ベキッとふたつに折って宗次郎の前に投げ出し、また煙のように元の座に帰って糸車の響き。微妙な歌声。
宗次郎は毛髪が一本立ちし、足は地に付かず。折られたニ箆の鉄砲をひったくって、どこをどぉして通ったか、明け方近き頃、家に帰り着いた。衣は破れて幣衣のようになり、手と言わず足と言わず顔と言わずイバラにかかり、岩角に触れて、そこも血の滴り、ここも血の滴り。それでも命だけは助かっていた。
宗次郎はその夜から床についたまま三ヶ月もしてやっと枕が上がったと言う。鉄砲は折られたままの物を檀那寺に納め、それっきり猟師を辞めてしまった。
宗次郎は、
「あれが、昔から言われている、山姫様と言うものだろう」
と、怖ろしかった頃の話を彼方此方で話していたと言う。その折れた鉄砲は檀那寺である長谷の正法寺に長く伝わっていたと言う。
山姫は山神の一種です。同じ山神のひとつに狒々がいます。狒々も山神の一種ですが身分は低いです。不思議なことに関西の狒々は残酷ですが、九州地方の狒々は少し違い、何だか間抜けな印象さえ受けることがあります。しかも狒々が死ぬ所を見ると、霊体ではなく、何か猿のような動物が変化したものであるような感じがします。しかし、多くの伝説を分析すると、けして猿ではありません。
門司の平山村に「釈迦堂の由来」として狒々の話が伝わっています。こちらも『門司伝説集』に掲載されているものです。
——平山村の権現さんの奥の洞窟に歳を経た一匹の狒々がいて、近郷近在を荒らし廻るが、これを打ち捕ろうと言う者がいない。
ある時、郷筒の寄り合いにこの話が出た。
「あの、狒々一匹が撃てんようじゃ仲間の名折れ。どうかして撃とうじゃないか」
と評定のあげく、伊川村の忠兵衛と言う鉄砲撃ちが撃ちに行くこととなった。
忠兵衛は充分に腹拵らえをして洞窟の横の藪影に隠れて待っていた。するとハクションとひとつ大きなくしゃみが聞こえ、大きな狒々がノソリノソリと出て来た。忠兵衛は、これっと狙いを定めてふたつ玉で撃ったが、玉は弾き返って来た。
狒々は大いに怒り、すぐに飛んで来て忠兵衛の鉄砲を取り上げ、続いて抜かんとする山太刀をも取られてしまった。万策尽きた忠兵衛は、背に腹は変えられず、その場逃れに狒々に向かって、
「こりゃぁ、おれどもが悪かった。命だけはこらえてくれ。その代わりに家にいるひとり娘を、われ方へ嫁にやるから」
と頼んで、やっとこちに戻って来た。
父は涙ながらにこのことを娘に話した。
娘も一度はこれを悲しんだが、なかなかの利発者、何か考えが浮かんだものと見え、承知の旨を述べて父を安心させた。
狒々はすぐに娘を連れに来た。
娘はふたつ返事で狒々の言うことを聞き、
「こりゃぁ、嫁入り道具じゃ」
と言うて、色々重い物を入れた壷を出して、狒々に背負わせ、ガンジガラメにくくりつけ、
「さぁさぁ、これで良かろう」
と狒々について出掛けた。
途中、回り道して、池の土手を通る時、そっと簪を抜いて池に投げ込み、急に泣き出した。
狒々が、
「こりゃぁ、どうかしたか?」
と言うと、
「あそこを見なぁ。あの池の中に浮いてる簪を。今、風で吹き落とされたっちゃ」
と言う。
すると、狒々は池の方を見た。
「おぉ、おれが取って来てやる」
と、すぐ池の中に飛び込んだが、背負うた壷に水が入り、とうとう壷ごと沈んで死んでしまった。
娘は無事に家に戻り、父親はひどく喜んだ。しかし父親は、この後、プッツリと山猟を止めたと言う。
娘も喜んだが、父親を助けるためとは言え偽って殺した狒々を成仏さすためと、山に草の庵を結び、父親と共に住みそこで一生を終えたそうだ。そしてこれが平山釈迦堂の由来とも伝えられている。次回第十話「神仙のこと」へ続く。
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