近世百物語・第十一夜「夜に百目歩く」〈前編〉
京都の船岡山のことを少し書きました。船岡山には色々と思い出があります。もう二十年位も前のことになりますが、深夜に京都中を歩いたことがありました。はじめた理由は後でふれますが……百日の間、下鴨神社から歩きはじめ……糺の森を通って、一条戻り橋等のいくつかのポイントを経由し、船岡山から千本今出川へ至るコースを歩いていました。
雨の日も風の日も無関係に歩きました。
深夜一時過ぎくらいから、四時前くらいまで、毎日、歩いていたのです。台風の時や雷雨の時もありました。すぶ濡れになりながらも歩いていました。
歩く時は、かかとを地面に付けないように、注意してつま先で歩いていました。出来る限りゆっくりと鼻で息を吸い、止められるだけ息を止め、その後にゆっくりと息を吐く方法で呼吸しながら歩いていたのです。目は真直ぐ前を見て左右を意識し、あたりの音を出来る限り聞くように勤めていました。この方法は、霊力を高める修行のひとつです。
この呼吸法でしばらく歩くと、皮膚が呼吸してゆくのを感じはじめると思います。これが、いわゆる〈カスミを喰らう〉と言われる技法です。〈カスミ喰い〉については、また、どこかで技法として詳しく述べますが、霊的な修行には欠かせない技法のひとつだと思っておいてください。
話がそれましたが、その歩く場所の多くは、街灯も何もなく真っ暗な道でした。明るい所は良かったですが、暗い所は何も分かりません。 特に寺とか墓場が近くにあると、真っ暗な場合が多かったように記憶しています。都会にこんなに暗い場所があること自体、とても不思議に感じ、京都と言う土地柄かと納得していました。そんな中で、いくつか不思議な体験をしました。
いつだったか、妙に鼻の長い犬のような物が歩いていたことがありました。犬らしき物は、ただ、ジッと暗闇からこちらを見て、フラフラと歩いていました。近くにいた野良猫が異様なほど恐れていました。犬のような生き物は気にもしていない様子でした。
それで、ふと、
——死んだ猫だけを食べる生き物がいる。
と言う、江戸時代の本に載っている文章を思い出しました。 その文章には〈犬のようだが鼻の長い生き物〉とだけ書かれていて、正体は不明です。
読んだ時、
——ただの鼻の長い犬でしょう?
と思っていました。
実際にあれを見ると、
——ただの勘違いでもなさそうだな。
と思いました。
私が見た死んだ猫だけを食べる生き物は、とても長い鼻でした。体も痩せていて、足も長かったように覚えています、尖った鼻先に、申し訳程度に硬いヒゲが生えていて、何ともアンバランスに感じました。その姿を見て、
——写真に撮っても作り物に見えるだろうな。
と思いました。それほど奇妙な雰囲気だったのです。その生き物が、フランスと暗闇から出て来て、まわりの猫が怖れる様子を睨んでいました。
猫たちは、喚いたり逃げたり、大混乱でした。ちょうど春だったこともあり、夜中にさかりのついた猫が集まっていたのです。
その場所は墓場の近くであること以外、覚えてはいません……と言うのは、その日は霧が濃く、しかも暗闇に近かったのです。いつもと同じ場所を歩いているのか、そうではないのか、良く分かりませんでした。毎日、少しづづコースを変えて歩いていました。スタートとゴール地点は同じで、主な通過ポイントも同じです。微妙な道は気分で変えていたのです。
寺や墓場などの暗闇を歩いていると、お坊内さんのような者に当たりそうになったこともあります。ような者と書いたのは、本当にお坊さんだったか分からないからです。深夜に暗闇を歩く僧侶。これだけで不気味です。黒い袈裟を着て、姿は闇に溶け込んでいました。当たる寸前に、何か妙な気配を感じて避けました。むこうはこちらを無視するかのように、音も立てずに行き過ぎました。その時、ふと、見上げると、僧侶が大きくなったように感じました。世に言う〈見上げ入道〉です。顔は遠くてハッキリしませんでしたが、笑っているのを感じました。ただの大きな僧侶なのか、さもなければ、妖怪の見上げ入道の類でした。
以前、高千穂に登山した時のことです。高千穂は九州の霊地として知られる山で、何人かで白い着物を着て、頂上にお祓いに行ったのです。
その時、仙人のような人に出会いました。冬の高千穂は寒すぎたのか、帰りは目がほとんど見えなくなり、妻に手を引かれての下山でした。
不思議なことに、生きているものだけが、その中で見えたのです。もちろん道は見えません。ただ、道のまわりに生えている、生きている植物が光って見えていました。
仙人らしき人は、下から登って来て、私の足元を見て、
「あぁ、そこは滑るから注意するように」
と言いました。
なぜだか姿がハッキリと見えました。
私はお礼を言い、頭を下げたのですが、すぐ後ろにいた妻が、
「誰と話しているの?」
と聞くのです。
「誰って、そこの山伏姿の人」
と指差すと、首を傾げて、
「誰もいないよ」
と答えてくれました。
ある時はこんなこともありました。
深夜に一条戻り橋あたりを歩いていると-……やはり不思議な体験をする日は、霧が濃いのですが……死装束の白い着物を着た女性が、向こうから音もなく歩いて来ました。
場所が場所、しかも時間が時間だけに、
——これはやばい……。
と思いました。
慌てて隠れようとしましたが、あたりには隠れる場所はありません。しかたなく、じっと固まったように立ちすくんでいると、女性は橋の真ん中あたりで顔を上げ、こちらを見ながらスッと音もなく消えたのです。 音もないのに、スッとと書くのも妙ですが、まさしくそんな感じがしました。
女性は美しい顔だちをしていました。しかし、どこか悲しげな目をしていました。消えたのを見た瞬間、私はそのまま橋の真ん中まで走りました。
——飛び込んだかも……。
と思ったからです。
怖る怖る橋の下を覗き込むと、下をフワフワと白い着物だけが落ちて消えました。後編へ続く。
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