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播磨陰陽師の独り言・第百九十三話「祝詞をあげていると」
祝詞をあげていると、時々、不思議な体験をします。今年の節分にも同じような体験がありました。
それは、自分で唱えているにも関わらず、まるで別な何かが唱えているような、他人事と言うか、第三者的な視点になって眺めている気分になるのです。
普段から話している声は小さいですが、祝詞になると、突然、別な声質になります。音量も、かなり大きくなるのです。
——いったい、どこからこんな声が?
と思うような感じになります。
そして、空なのか、天なのか、美しい声が聞こえてきます。何を言っているのかは分かりません。歌っているような、美しい声です。
この声は〈迎え祝詞〉と呼ばれています。
迎え祝詞は神が唱える祝詞と言われています。
本来の祝詞は、神職と陰陽師が現実世界で唱え、霊界から神がそれに応えるように唱えるものです。常に神職と陰陽師がセットで祈っていました。今は陰陽師はほとんどいないため、神職のみが祈る形式になってしまったものです。
基本的な祝詞は、神々に恋焦がれ、祝詞を唱えるものです。この時の、心が打ち震えるような気持ちを、歌うように言葉にのせて唱えるものが、すなわち〈祝詞〉なのです。
今年の節分に祝詞を唱えていると、やはり天から声が聞こえました。播磨陰陽道は宗教ではないため、普段から信仰心はありません。もちろん、盲信もしませんが、それでも聴こえてしまったものは仕方ありません。見てしまうと、さらに仕方なくなります。
信仰心がないので、見たものを神だとは考えません。色々と疑って、試してみて、はじめて神だと思うのです。最初から霊的なものであることだけは確かなので、それなりの礼儀は尽くします。
死者には死者の礼節があり、魔物には魔物の礼節があります。そして神には神の礼節があるため、それを守らない人は好かれません。
肝試しに行く人々の中で、特に夜中の神社へ行く人は礼節を知りません。だから夜の神社に住む魔物に、ひどい嫌がらせをされるのです。
また、幽霊を見たいと言う人たちも、死者に対する礼節を持ちません。礼節のないところには、常に厄がついてまわります。私にとっては、単にストーカーみたいな陰気な亡霊が近くに立っているだけ……なのですが、はじめて見る人は怖いようです。
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