怪しい世界の住人〈天狗〉第一話「天狗の登場」
【はじめに】
天狗と言えば、皆さんは何を想い描きますか?
赤ら顔の長い鼻ですか?
服装は、山伏のような着物を着て、手に大きなウチワを持っていて、一本足の下駄を履き、空を飛びまわるものを思うかも知れません。
牛若丸などの伝説にも天狗は登場します。大きな声で笑っては、人を導いたり、あるいは、魔道に誘ったり、とにかく、色々な矛盾した伝説が残されています。
天狗と呼ばれるモノは、いったい神なのか?
それとも魔物の一種なのでしょうか?
そして、実在するのでしょうか?
天狗は、わが国の民間信仰の中にいる伝説上の妖怪です。時には人を魔道に導く魔物と呼ばれ、〈外法様〉と言う呼び名があります。しかし、それらは、主に昔話の中に登場する姿で、現実の天狗からは、少し、かけ離れていると思います。
怪しい世界の住人〈天狗〉は、天狗の実像と実在にせまり……天狗が何か現実の世界に役にたつのか……と言うことについても触れてゆきたいと思います。
【そもそも天狗とは?】
漢字で〈天狗〉と書いて、これを〈てんぐ〉と読みます。この文字は〈あまつきつね〉とか〈てんこ〉とも読みます。
結論から言うと、天狗は狐の一種です。狐と言っても、コンコンと鳴く口先の尖った動物のことではありません。霊的な存在である〈異なり〉と呼ばれる現象のひとつなのです。しかし、それがすべてではありません。いくつもの存在が時代と共に重なって意味の分からない存在に祭り上げられたものとなりました。神や魔物も〈天狗〉に含まれています。しかし、含まれていると言うより、
「混乱して、分けられていない」
と言う方が正しいかも知れません。
そもそもの〈天狗〉と言う言葉は、最初、中国の伝説で呼ばれていた名が、わが国に伝わったものです。この言葉は日本書紀が書かれた頃に伝わったものです。不思議なことに、それ以降、しばらく〈天狗〉と言う言葉は使われていません。もともとの中国から伝わった〈天狗〉と言う言葉は、轟音を出して墜落する流星のことでした。
【天狗の登場】
『日本書紀』の中に、
——舒明《じょめい》天皇九年ニ月(637年)、都の空を巨大な星が、雷のような轟音を立てて東から西へ流れた。
と言う記載があります。
人々は、その恐ろしい音を聞き、
「流星の音だ」
とか、
「いや、地雷の音に違いない」
などと騒いだそうです。
その時、唐から帰国した学僧の旻と言う人が、
「これは流星ではない。唐で言う、いわゆる天狗と言うものだ。天狗の吠える声が雷に似ているだけなのだ」
と自信たっぷりに言いました。
当時の人々が、せっかく、
「流星だ」
と言って正体を正確に把握しているのにもかかわらず、インテリ階級である学僧が舶来の知識をひけらかして、
「天狗だ」
と言ったのです。舶来の知識としての〈天狗〉と言う言葉が、これからしばらくの間、世間に流行りました。
ちなみに、このインテリ学僧である、旻さんは有名な人ではありません。かの有名な小野妹子といっしょに唐に渡って帰って来た人です。後に〈国の博士〉と呼ばれました。インテリ階層の人意見に左右されるのは、今も昔も変わりませんね。
この音を立てて落ちる流星のような現象は、わが国に例のない現象でした。そのこともあって、〈天狗〉と言う言葉は定着しませんでした。
【江戸時代の天狗の認識】
唐では、
「天狗の吠える声に、雷の音が似ている」
と言われていました。この現象は、頻繁にあったようです。しかし、もともとわが国での雷とは、神が天を鳴らすことを意味しています。
だからかも知れませんが、
「天狗と言うものが鳴くと空が轟く」
と言う考え方は、あまりピンときませんでした。
また、当時の日本人なら誰でも、
「雷は、天狗と言う魔物の鳴き声ではなく、雷以外のなにものでもない」
と感じていました。雷は魔物などの仕業ではなく、自然の営みと感じていたのです。
天狗のことについては、江戸時代に書かれた『閑田耕筆《かんでんこうひつ》』と言う本の中で定義されています。
『閑田耕筆』について辞書を引くと、
――随筆。四巻四冊。伴蒿蹊著。1799年刊。蒿蹊自身が見聞考証した事 柄を天地人物事の四部に分けて編纂したもの。
とあります。その本の中に、
――わが国で言う〈天狗〉は、古い中国にも前例のない現象であるので、昔から様々な人々が論議して来た。
と書かれています。
魔物の情報の多くは、古い中国の書物を参考にしていました。そこにないものは、わが国独自の解釈をするしかありません。魔物を実在の現象として解釈し、対応方法を考えることが重要でした。それを〈神霊学〉と呼びます。神霊学は、古式陰陽道から神仙道を経て変化をとげた、知られていない裏の学問のひとつです。
さて、江戸時代の儒学者、萩生徂徠が書いた〈天狗説〉と言う著述の中にも、天狗のことが様々に書かれているます。これも決定的な話ではありません。しかし、同じ頃に水戸で書かれた『護法資治論』と言う書物の中に詳しいことが書いてありました……次回に続く。
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