播磨陰陽師の独り言・第三百六十八話「祝詞や祭文の音」
われわれ播磨陰陽師は、祓いや様々な時、神職と同じように祝詞や祭文をあげます。もちろん、神主ではないので、独特の古いあげ方を好みます。古いと言うのは、歌うような節があるやり方と言うことです。神主も昔は歌うような祝詞をあげていました。それが、大正十四年に決まった法律で、祝詞は棒読みになったのです。
理由は、
——祝詞を歌うには才能が必要であり、たくさんの神職が必要になった現代にそぐわない。
と言うようなものでした。国家神道のためにこのような決まりが出来たのです。
古い正式な祝詞は、
——神職と陰陽師がふたりで唱え、それに反応するように神々が自然を動かす。
と言われています。
神話の中で最初に祝詞をあげた時、神職と陰陽師の祖先であるニ柱の神が唱えたことに由来しています。
さて、祝詞や祭文をあげる時、暗記したものを思い出しながら唱えてはいません。暗唱しているのではなく、自分の言葉で唱えているのです。だから、その場に適切なことを古語で言っているだけで、たまたま同じ状況になるので、言葉が同じに聞こえるのです。
祝詞などをあげる時は、意識は耳に集中しています。まわりの音を聞いているのです。
喉から発せられた音は空間を振動させます。そして、あちらこちらにぶつかって、波紋を作りながら影響しあいます。反射する音、ぶつかり合う音、空間で新たに発生する音などが空間に広がってゆくことを、耳で追っています。空間に音が広がると、美しい言葉ですので、悪い言葉を空間から押し出します。そして浄化するのです。
もし、祝詞や祭文を聞いている人たちがいたら、その人々の額の骨が、どのくらい振動しているかも聞いています。額の部分の骨が振動すると、ある種の陶酔状態を作ります。そしてそこに、神々が降りてくるのです。
恐怖は魔物を呼び出します。行くところへ行けば見えなくても必ず来ています。そして、怖ろしい体験を与えたり、目には見えない不幸を与えます。厄介なことに、恐怖の感情の強さやそれを持つ人の人格に関係なく、その場所に近い魔物がやって来ます。恐怖の感情は魔物の棲む魔界との扉を開く鍵なのです。
一方、感動は神々を誘います。必ず来るとは限りません。感動した人の人格や普段からの行いや、様々な要素によって、誘いに乗って来る神々の神格が異なります。人格が低いと、
——われは何々の神である。
と、嘘をつかれて信じ込む人も多いですが……。
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