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近世百物語・第二十夜「鬼と呼ぶもの」〈前編〉
過去に出会った何人かの霊能者達は、私を見るなり、
「鬼がついていて恐ろしい」
とか、
「人ではないものの知識を得ている」
と言って避けたり、怖れたり、あるいは祓おうとしました。しかし、何の影響もありません。
ただ、その何かが、
「祓えるものなら祓うが良い」
と、笑っているだけでした。
私には、幼い頃から不思議な知識がありました。学んだ物ではなく、ほとんど生まれつきの物です。多くは霊的なものや古来の神々についての知識です。霊的な物事を見極めるための基本的な知識を、物心ついた時、すでに備えていたのかも知れません。
さて、〈鬼〉と呼ぼうと〈神〉と呼ぼうと呼び方は勝手らしいのですが、それが時々、恐ろしい獣の姿を現すことがあります。あるいは配下のものが姿を現すのか、その実体も正体も分かりません。常に鬼のような姿形をしているのです。
絵に描かれている鬼の姿は、地獄の鬼を描いたものです。江戸時代にイメージが決まりました。それ以前はもっと別な姿でした。虎の皮のフンドシを履いた鬼は実在でありません。しかし、何年も人の世で信じられたイメージは、やがてその姿に固定しました。そのことからも、私が見た鬼の姿は、皆さんが知っているあの姿です。
その姿の鬼を何度か見ています。確かに怖ろしい姿です。鬼としか呼びようもありません。不思議なことに、鬼には大きさと言うものがありません。大きくもなり、小さくもなれるのです。小さいからと言って弱くなる訳ではありません。力は大きな時と同じです。重さも自在であるらしく、大きなままで軽くなったり、逆に小さいまま重くなったりも出来るのです。不思議な連中です。
認識の仕方で変化するのでしょか?
それともただ、心の中に存在しているだけなのでしょか?
正確な理由は分かりません。
私には見えていますが、他人に姿を見せることもあるようです。何人か私の後ろに鬼を見て怖れた人がいます。私を鬼使いとして認識したようです。
鬼使いは伝承に、
――死して鬼の序列に入り、やがて人に使え、その者の心を喰らう。
とあります。これを〈鬼籍に入る〉と呼びます。この言葉は過去帳に入る、あるいは死ぬことを意味していますが、われわれは死んでから鬼の籍に入る意味で使っています。入るとどうなるかと申しますと、新人の鬼として鬼使いに使われるのです。そのような運命を持って産まれたからは、たぶん、そうなることでしょう。
鬼は心の強さで使役するものです。
心が弱い人は鬼の言葉の通りに生きて不幸と厄いをくり返します。心を強く持てば、鬼は自在に知恵を与えてくれますが、そのすべてを理解出来るとは限りません。
人と鬼とは、言葉の使い方そのものが異なっています。知識の構造も違った存在です。理解し、自分の知識として貯えるには、それなりの訓練が必要となります。それを〈修行〉と呼びます。修行とは何か特別な鍛練をすることではなく、日々の行いを修めることにあります。難行苦行をこなせても、日々の行いを修められなかったら、修行そのものの意味がないのです。
鬼には大きさがないと書きましたが、それは大きくもあり、小さい物でもあります。
子供には、強調したいものを大きく描く傾向があるそうです。鬼と呼ばれる存在の前では、人は常に子供のように未発達で、頭脳や肉体もひ弱な存在にすぎません。
鬼は、何のために、人と共存しているのでしょうか?
それは人の心の中に棲み、その者の強い感情を食べているからです。鬼は、自分の存在を維持するために、人の心を糧としているのです。鬼がもし、食料としての餌を必要としているのなら、それは人の肉ではなく、人の感情だと思います。
さて、最初にハッキリとそれらを〈鬼〉として意識したのは、私が十五才の時でした。
その頃に自殺した友人がいました。友人が、死ぬ前日の深夜、鬼としか呼びようのない獣が目の前に姿を現しました。大きな鬼でした。優に2メートルを超えた姿はぼやけていました。煙のような、水の中を見ているような、何だかハッキリしない雰囲気でした。その鬼が、口を開かずに話しかけてきました。
「明日の朝、お前の友人が首を吊るだろう」
言葉が頭の中に聞こえたのです。
そして、
「お前にはどうすることも出来ない。ただ、それを知ることにより苦しみを得たるのみ」
と告げて消えました。
翌日、学校へ行くと、担任の先生が、今朝方、友人が自殺したことを告げました。彼がなぜ自殺したのかについての理由は分かりませんでした。部屋で首をくくったと言うことでした。
数日後、また鬼が姿を現わし、
「心の脆《もろ》き者は、滅びるのだ」
と、告げて消えました。
そのことから、
「彼も、鬼と何らかの接触があって、結果として死を選んだのだ」
と、その時は思いました。死ぬことが身近で、しかも怖ろしく思えました。
結局、彼の葬式には行きませんでした。鬼に殺されたかも知れない友人の葬儀に、明日のわが身を感じたのです。
私は誰の葬儀にも行きません。誰かの葬式に行っても、本人の霊が陰気に佇んでいる姿を見るのに耐えられないのです。棺の上に座る本人が話しかけて来ることもあります。話しかけると言っても、やはり口は動いていません。笑ったり怒ったりすることもなく、多くは悲しげな表情のまま、下を向いています。だから、ほとんど誰の葬儀にも行きません。
私の中の〈死の恐怖〉は、鬼によってもたらされ、鬼によって消されて行ったようです。
その時、出会った鬼は一匹でした。後に何度か目にした鬼はツガイであることが多かったようです。
オスの鬼は、皆さんが知っているような姿です。しかし、その後ろのメスは、幽霊のような、怨霊のような、まるで、小さな般若のような感じで、私の目の前に姿を現わしました。単独でメスだけが来ることはありません。いつもオスに寄り添うように現れるのです。しかも、ハッキリとしない姿で、ぼんやりと佇んでいます。後編へ続く。
* * *