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祈りのカタログ・第三十二話「インプロって叫びたい」
前回の最後のところに、
「体の動きを、言語として脳が処理することが祈りを行うためにも大切だ」
と言うことを書きました。
本来の〈祈り〉は歌うことです。祝詞などの祈りの言葉を使って、歌うように祈ります。この時の呼吸の深さやコントロールが神か得た力を駆使することになります。
そして〈踊り〉の方もまた、古くは〈祈り〉の一種でした。これは体が言葉を発して美しい歌を唄うと言う〈現象〉なのです。単にそれらを〈舞〉とか〈踊り〉と呼んでいるだけです。
わが国の祈りとしての〈踊り〉の原点は古事記の中の〈天の岩屋戸の段〉の部分にあります。ここでは天の細女の命が踊り、まわりの神々が踊りに合わせて演奏したり歓声をあげたりしています。
現代語に翻訳された物語の中には、
「細女の命が裸踊りをした」
とか書かかれているものもありますが、その部分は重要ではなく、この踊りの中で何が行われたのかが大切なのです。
細女の命は神がかりして踊ります。〈神がかり〉とは創造的な意識とのつながりを意味しています。創造的な意識なので、決まった手順で踊っている訳ではありません。即興的に踊るのです。
時々、
「即興舞踏と呼ぶものは、細女の命の神がかりしてと言うべきことを、現代風に分かり易くして、言い直しただけの言葉なのでは?」
と思うことがあります。
即興のことをインプロビセーションと呼びますが、
「細女の命のもインプロなんですよ」
とか窓を開けて叫んでみたくもなります。
それは何故かと尋ねたら古事記の中に観客であるは筈の神々が、
「歓声をあげるあまりに、その内、細女の命の歌に合わせて笛や太古を打ち鳴らし」
と書いてあるからです。ここのポイントは歌に合わせてのところです。
現代語訳の古事記の多くには、
「細女の命が唄ったのでそれに合わせて楽器を打ち鳴らした」
と書いてあります。ですが、そこで細女の命が歌ったのは、
「ひとふたみぃ、よいつむゆななぁ、やここのたり」
と言う〈ひふみ〉と呼ばれる歌のことです。この歌は古くから〈ひふみ祝詞〉と呼ばれていました。
この歌が後の時代になって、
「ひふみよいむなやこと」
と言う、現在知られている〈ひふみ祝詞〉に変化して行きますが、いずれにしてもこの歌はとても短いものです。何度も何度も繰り返し歌ったのなら間も持ちます。しかし、そう言うようには古事記の中には書いてません。
そこで〈歌う〉と言う言葉に注目します。
この〈歌う〉と言う言葉は、まぁ分かりやすいように現行の漢字で表現していますが、この言葉の古い形式である〈うたふ〉と呼ぶ言葉そのものは〈踊ること〉も意味しています。また、歌うの〈うた〉とイタコの〈いた〉と沖縄の霊能者である〈ゆた〉は同じ意味の方言です。すべて歌うことを意味しているのです。
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