10月25日 アイデンティティ
特定のアイデンティティを持つ
わたしはこれを誇りにしていた。そのことで誰もわたしをいじめなかったし、わたしのアドバンテージにもなった。と思ってた。
グローバル化が進む中で、ハーフや両親の出身と子供の出身地が違うことなどって当たり前になってきたと思う。
身の回りにもたくさんいる
そして自分もそう
昔は、アメリカ人(ヨーロッパ人)のハーフが良いなあと思っていた
すらっとした見た目への憧れ、(わたしの苦手だった)英語がハーフだったらすらすらできるだろうなあという羨望
でも、英語を地道にできるようになってきたら、見た目のコンプレックスなんてつまらないなあって少しでも思えるようになってからは全然そのような羨望も願望も言わなくなった
わたしは、中国が大好きだ
少なくともわたしの身の回りの人はわたしにとても優しくしてくれる。美味しいご飯も食べれるし、なによりわたしにとって幼い頃から耳にしてきたもう一つの母語で溢れている。
日本と中国の関係はどっち側に立っても難しい。
中国側の親戚は、わたしのことをよく受け入れてくれるなあと反日デモが起こるたびに思う
日本の技術やご飯の美味しさ、清潔さを愛してくれてるなあと思う、国として信頼してくれているような気がして、褒められると嬉しい。
どこで生まれたか どこで生まれた人の血が入っているか いまどこで生きてるのか
私たちはこの地図に線を引いただけの(って言い方は少々雑か)国という概念に、自らの大部分を支えられている
大したものでも無い 国なんて って思う
脆くて柔くてわたしのほんの一部でしか無い
なのにその「国」のせいで
一喜一憂してしまう
褒められると嬉しい。日本にいて中国をすきだと言ってくれる人、中国にいて日本をすきだと言ってくれる人に出会うと嬉しくなる。わたしのほんの一部が肯定された気がする。
歴史的に隣国という関係はどこの地図を見ても複雑さを持っている
だから、日本や中国、韓国が互いに牽制し合うのも、地図にあるあの境界線とアイデンティティを守るためなのだ
だから割り切っている
でも、近頃そんな割り切りでは看過できないようなヘイトに溢れている そう感じる
ヘイトだとも思っていない攻撃
ヘイトを正当化したただのヘイト
たしかに国に対する好き嫌いは、個人の自由だ
でも、好き嫌いを言葉にするということは、それだけ自分の先入観の正しさを武器に視野を狭めついでに他人を無造作に傷つける
それが本望だとしたらものすごく悲しい
でも気付いていない何気ない言葉ほどの恐怖もない
嫌いな人ならいくらでも傷つけて良いのだろうか
違う場所に生まれただけで、そんなちょっとした運命の違いで、嫌われるのだろうか
たかが「国」されど「国」
こうなりたくて持ち得たアイデンティティでは無いのに、傷ついた気分になる
理不尽だ
改めていうが、国の方針を批判することもその国を好きとか嫌いだとか思うことも個人の自由だ
でも、わたしのそのアイデンティティが
わたしという人間の人格以上のパワーを持ち得る
それがこわい
悔しい 寂しい
「国」というほんの一部の''わたし''より
その「国」の縛りを超えた''わたし''を見てほしい
これから増えていくハーフや海外国籍の子たちが、怯えていかなきゃいけない、そうなりたくてなったわけではないたかが国の違いで、苦しむような社会は、変えていきたい
地球は丸いし、案外ちっちゃい
いくらだって人と出会う可能性がある
その中で理不尽な偏見に傷つく人が減ればなあと思う
自分のアイデンティティを認めてもらえるような社会ってなんで当たり前にならないんだろうなあ