10月21日 服

https://m.huffingtonpost.jp/entry/story_jp_5f8d18e8c5b62dbe71c43c37?ncid=tweetlnkjphpmg00000001

フィンランドの首相がファッション誌の表紙を飾った際に胸元が大きく開けた服を着たため論争を巻き起こしたらしい。

議論が巻き起こった理由は様々なところにあるだろうが、「フェミニズムの考え方に逆行してると感じる人たち」と「好きな服を着る権利(主にフェミニズム側)を主張したい人たち」との考え方の相違が主だろう

好きな服を着る権利は当然誰にでもある。ちょっとセクシーなものを着ることは、本人が好んでいれば否定されることではない。ではこのセクシーな服を着ている姿を見て性的な魅力を感じてしまった他者がいるとする。この時魅力を感じる心は否定されるべきでないとわたしは思う。しかし個人的な思想にとどまらず、なにがしかの性被害を実害として与えた場合、服を着ていた本人よりも加害してしまった側に責任(罪)があるだろう。

さて、ここでは心のうちに留めた時の話をする

心のうちに留めたとしても、それは「性的搾取」であるといえるだろう

 性的対象化・性的モノ化・性的客体化・性的物象化(Sexual objectification)は、他者を性欲充足の道具として扱うことである。
広義の「対象化」とは他者をその個性や尊厳を無視して消費財や手段として扱うことである。対象化の概念は、主に社会のレベルにおいて吟味されるが、個々人の行動について問題にすることもできる。(Wikipedia)

性的搾取は陰湿だ。その心のうちなど目に見えない。でもその心のうちが露見した時、そういう目で見られたことに対する苦痛を味わう人はいる。そしてその苦痛を理解してもらえないところがある。どちらも心のうちの話だからだ。いくらでも「解釈の余地」がある。そう捉えられる。

被害を受けたのにその苦痛を理解してもらえない

被害を受けたのに加害者のような扱いになってしまう

話を戻すと、では、好きな服を着る自由があり、胸元が大きく開いたいわゆるセクシーな服を着たくて着たとする。

その時「性的搾取」に対して、服を着ている側の責任は一切ないのだろうか。

例えば、上裸の男性アイドルに性的魅力を心のうちで感じた人がいた時感じた人の責任があるなら、上裸の男性アイドル(という構図にした側)に責任はないのだろうか

わたしは、どちらにも責任があると思う

「性的魅力を感じる」この心理状況に対して医学的な根拠生物学的な根拠をわたしは上げることができない

でも、少なからず「動物」としての人間はその欲求を捨てられないものだとも思う

メスに振り向いてもらうためにド派手な模様の羽を広げるオス のように、セクシーな服を身につけるということはそれだけ責任が伴ってしまうのではないだろうか

いや、たしかに、ド派手な羽を広げるのは「振り向いてもらいたいから」という欲求があるので例としてはふさわしくない気がする。

でも、なんとなく目立つものに目が惹かれる感覚はあるだろう

女性が女性のセクシーな服を見て「わー…セクシーだな………」と心のうちで思うように

男性だって思うだろう

その逆も然りだと思う

だから、「好きな服を着る自由」と「性的消費への批判」は表裏一体なところがある

しかし「性的消費を助長・認める社会」は変わっていくべきだと思う。それは「いじめ」を見過ごす社会と同じだ

その社会の変化については後々考えていくとして、今回のフィンランド首相の件について少しだけ考えたことを残しておく

わたしは、フェミニストとあえて自身のことを称する必要がないと思っている。男女平等を目指すのはあまりにも当たり前すぎて、わざわざカテゴライズする必要性がないと思っているからだ

むしろ、このカテゴライズが分断を生んでるとすら思っている

「フェミニスト」が、他者を煽るような発言をするのは元も子もない。

男女不平等の社会で男女平等を唱えることは勇気がいる。人は変化に対して臆病だから。だからこそ、煽るべきではないのだ。煽れば臆病な気持ちを助長させるだけだ。しかし、感情的に煽ってしまう傾向があることがどうもかなしい。

何故こんな話をしたかというと、このフィンランド首相の件も感情的な煽りにより論点が幾度もすり替わってるようにすら思うからだ。

フィンランド首相にはたしかに好きな服を着る権利がある。しかし、「ファッション誌」は好きな服を着ることが目的ではない。好きな服を着るのは公務やプライベートの場面だろう。逆にいうと「ファッション誌」は「ファッション」に意図があるのである。ファッション誌があのような胸元を大きく開かせた服を載せるのは当たり前だ。好きな服を着る権利を守るために。

でも、それを首相が、表紙で着る必要があったかと言われれば特にないはずだ。首相がそのような服を着ることで、服を楽しむ自由を大々的に表明したことになる かもしれないが、先ほども言った通りそのような服を着る責任の裏には性的消費という問題があるとわたしは考える。

そう思うと

セクシーな服を着る女性首相がいてもセクシーな服を着る男性首相はいない

後者は弾糾されやすいから

職業的な役割と性別の役割のイメージはまだまだしぶといようである

フィンランド首相のあの服装は、政治家としてアリなのかと聞かれたらわたしはアリではないと思ってしまう。やはり、セクシーさは俗っぽい。万人のニーズを汲み取り国を取りまとめ他国と渡り合う存在がそのような服を公に着るというのは、はしたないような気もしてしまう。もちろん彼女の服装の自由は認めた上で、それ以上に責任があるのではないかと思ってしまう。一人の人間であるが、彼女は国民の前に立つ人なのだ。と。セクシーな服を着る必要性を感じない。わたしは、あれは自由の問題じゃないと思う。ただファッション誌なので、自由を問題にした誌面であるからあの服を着たことをどこまで否定できるかと言われると未知ではある

必要と不必要 責任 自由

揃うのが難しい

この問題とりあえず今の所感を述べたところでまた今後も考えていこうと思う。まだまだ知識不足だからわたしも。正解とかない。息苦しくないように。考えていこう。


このブログは未完です。まだまだ考えも変わるからね。







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