権利と義務について
私たちが持つ人権は、何かの義務を果たした代わりに与えられるものではない。納税していなくても働けなくても生きていく権利があるし、障害があるなら暮らしやすいよう配慮される権利があるし、成果が出ない日でも出勤したならば労働の対価を受け取る権利がある。ちょっと考えてみればわかることなのだが、病気になった人が公費をかけても生活の保障をされて適切な治療を受けて生き延びる権利を持つのはその人が健康な間に納税してきたからなのか?難民が保護されるべきなのは受入国にとって安価な労働者としての価値があるからなのか?アフリカの恵まれない子供たちが衣食住や教育を保障されるべきなのは、かれらが何かの義務を果たしているからなのか?そうではない。何の義務も果たしていなくても皆が持っているのが人権だ。全ての人に自分の生存と健康と幸福を追求する権利がある。念押ししておきたいが、「かわいそう」だから助けるべきなのではない。その動機は危険だ。感情ベースで助ける人たちは、かれらが「かわいそうな良い子供たち」「わきまえた良い難民」でなくなったときにどう反応するだろうか?ムカつく奴、気に食わない奴にも等しくあるのが人権だ。単に人権があるから、助けるべきなのだ。
人権の話をしているときにコストを引き合いに出すのはナンセンスだ。車椅子生活をしている人が、電車に乗るために事前予約をする必要があるのは、駅にエレベーターがないからだ。時には乗車を拒否されることもあるそうで、最近は伊是名夏子さんによる権利回復への働きかけが話題になった。自分の足で歩ける人たちは、誰の許可を得なくても/一人で/運賃を払いさえすれば電車に乗ることができるのに、足が不自由な人だけが事前予約の義務を負い、ペコペコ頭を下げながら助けてもらわないと電車に乗れないのは人権を侵害されている。エレベーターをつける予算がないからとコストの話に持っていくのは間違っている。本当に予算がないなら、障害者を不当に排除することで保たれている安い運賃を上げてでもエレベーターを設置するべきだ。
健常者も自身の権利と無縁ではない。サービス残業や改善の余地のある労働環境など、それを当たり前だと思っていれば耳が痛い話かもしれないが、自分や他人に強いている慣例について合理的な理由があるなら説明すればいい。合理的に話ができないから、嫌なら辞めろなんていう短絡的な発想に至ってしまうのではないか。生活保護を容易には受けられない日本において、労働者は会社に命を握られている。その権力勾配について意識的になるべきだ。
非日本国籍者、女性、障害者、セクシュアルマイノリティ、非正規労働者など、マイノリティ性というのは様々である。人はひとつの軸上にいるのではなく多層な存在であり、時にはマジョリティであり時にはマイノリティだ。それぞれの人たちが、何の義務も果たさなくても人権を持っている。まずは、自分がマイノリティであることについて、自分の権利を自覚すること。主張しないことが悪ではないが、何も言わなければ権利はじわじわと奪われていく。これから生まれてくる/大人になっていく人たちのために戦って生きやすい環境を用意できるならば、自分が倒れようとも戦う価値はある。そして、人としての真価が問われるのは、自分がマジョリティである場合、つまり権力勾配の上位にいる場合である。実際はもっと複雑で、私がフェアトレードでないチョコレートを買う時、誰かが安い値段で労働力を搾取されている。しかし私には他人を搾取しない商品を手に取るための十分な収入がない。資本主義社会では、倫理的であるためにもお金が必要なのだ。動物実験をした薬や化粧品を使い、数百円の安い服を手に取る時、私は他者の人権を侵害し、搾取に加担している。私が何も行動しなかったことによって、今日も車椅子の人が電車に乗れなかったかもしれないし、ホームレス状態の人がベンチで横になることができなかっただろうし、入国管理局では病気を放置された人が亡くなった。私の生活は、自分より弱い人たちをたくさん見捨てた上で成り立っている。しかし、私ももっと権力を持った者から搾取される存在でもあるのだ。
自分にできることをやろう。それでいい。世界を変えることもせずに子供を産むなんて私は反対だが、それでも生まれてきてしまった加害者/被害者たちのために、少しでも加害者性/被害者性が軽くなる社会を目指していかなくてはならない。何もできないなら何もしなくていい。だから邪魔をするのはやめてほしい。全ての個人の権利回復が、全ての個人が善を目指せるという幸福に繋がる。