身軽じゃなきゃ、これ以上歩けないので 101 小渕花梨 2018年8月28日 11:58 「最後」を言い訳に、思いつくままにはしゃいでみたくなった。 平成のほとんどを子供として過ごした。ただ、はしゃぐために言い訳が必要になったりとか 好きなように買い物ができたりとか、もう、どうしたって大人になっていて、今は今でしかなくて 自分の平成を拾い集めようとしても、その新鮮さは過去に感じたままのものではなく、今の目を通した新鮮さだ。 やり残したことがないわけじゃない。たとえば、蝉の羽化を結局見たことがない、なんて些細なこと。 でもそうして些細なこととして取りこぼすものが増えてくのは嫌だな、と思った。 この暑さでも体が腐っていかないのだから、私は常に新しくなっていて そのぶん、いらなくなったもの(ということにしておく)をたくさん失ったはずだ。 身軽じゃなきゃ、これ以上歩けないと思った。 今、命があるからには、川が冷たいままであるように生きてきたはずだ。 でも、新しくなるスピードは年をとるにつれて遅くなるようで 言葉を飲み込むのが苦手になってきた。 知識が入るのにより時間がかかるようになって、変革の頻度も減っていって そういう意味では、素直になれていないのに 素直なふりでやり過ごすことが増えた。 それを汚れていくと表現するのは短絡的だ。 短絡的になりたくはないけれど、常に新しくいることを「子供だったのだ」と片付けることもしないだろう。 取り込む力が衰えて、そのままなら淀んでゆく だから今度は残らず吐き出してやれと私は書く。語ることがなくなったなら、それが私の死ぬ時なのだろう。 子供みたいに遠慮なくアイスをこぼしながら食べるのも、 私の責任を他の人がとらなくてよくなったからで、それをわかったうえでのことで 自由なふりをして 空がこんなに青いことに 気づいていなかった。 平成最後の夏、なんてね、今まで生きてきた日々だって、人生最後の今日だったはずだ。 そんなふうに大事にしてこられただろうか。 平成最後の夏って名前をつけて、このなんでもない日々を まるでかけがえのないものだったかのように、これからも大切にしつづけられるのだろうか。 いや、きっと、たぶんやり残したままの宿題とか、幼いなりに書いたラブレターの行き先とか、思い出しもしないくらいきれいに忘れてしまったことを さらに思い残さないように、「平成最後の夏」って封をするみたいに、この夏に置いていく。 (写真:bunjo https://www.instagram.com/bunjo__ ) いいなと思ったら応援しよう! チップで応援する #写真 #平成最後の夏 #平成最後の夏Tシャツ 101