看護学生が解剖見学をする小説

「人は、人体を解剖したことがある者と、そうでない者の2種類に分かれると言っても過言ではない。それぐらい、解剖は君たちの人生観を変えるだろう。ようこそ、我々の世界へ!」

P大学医学部解剖室のI教授は手を広げ、上品に微笑んだ。
見学に来た看護学生に対し、暖かい歓迎の言葉。
けれど、せっかくのお話よりも、私は後方に意識を取られている。
体育館ほどの広さがある解剖室中に整然と並んだたくさんのストレッチャー。
全てに白いシーツがかけてあり、中は細長い形に膨らんでいた。
大きさは私の知っている人体のイメージよりも、少し小さく感じる。
その上、ホルマリンと微かな刺激のある死臭を含んだ冷たい湿気のある空気がつらい。
呼吸をするのもためらってしまう。
早く外に出たいと思う。
そんな中を、居心地良さそうに笑顔を浮かべる解剖学者達は、やはり私達と違うと改めて感じる。
私は人体解剖なんて、恐ろしい。
でも看護師になるために必要な試練だから、耐えるしかなかった
たった1日だけだし、解剖見学は貴重な機会だから、気持ちを切り替えてしっかり勉強して帰ろう、私は自分を奮い立たせた。

「それでは4グループに別れて下さい。1グループは藤田先生が担当します」

 グループ分けは、事前に配布されたプリントに記載されている。私は1グループだ。
藤田先生はどこだろうと見回すと、茶髪の男性が手をあげた。
若い。
28歳の私と同い歳くらいに見える。
私と変わらない年齢の人が解剖学の先生をしているのだと思うと、つい、自分が今まで何も成してきていないことに落ち込んでしまう。

「藤田です。1グループの方は僕の後についてきてください」

10人でぞろぞろとついていくと、解剖室の一角に案内された。そこには中が膨らんだストレッチャーが6台あった。多い。1体をみんなで代わる代わるに見るのかと思っていた。

藤田先生は明るい雰囲気でニコニコしながら言う。

「では、シーツを取ってしまいましょう」

 学生同士で顔を見回した。誰もが「どうする?」と戸惑っている。
誰がシーツを取り、ご遺体と一番に対面する役割を引き受けるのか。
でもすぐに男子生徒が前に出てきた。
次に現役の女子生徒が顔を見合わせながら、おずおずとストレッチャーの前に行く。
しかし、まだ誰も行っていないストレッチャーが残っている。
嫌だけど、誰もやらないなら仕方ない。
私はうつむいてストレッチャーの所に行き、ご遺体の前に立った。
シーツに手をかけ、目を閉じながらめくった。

「すごいね」「思ったより大丈夫かも」

背後からクラスメイトのコメントが聞こえ、私は少しだけ安心して目を開けた。
確かに、ご遺体は白くて滑らかで、まるで人形かマネキンのようだった。
胸から腹の表皮が切り取られ、内蔵が見えていたが、それほど恐ろしくはなかった。
血がないから生々しくないのだろう。
更にシーツをめくり、下肢まで露出させた。
下腹部には高齢者らしい萎びた性器が見えたが、じっくり見てはいけないような気がして、私は視線を素通りさせた。
死後に医学部に自分の身体を提供することを、献体と言う。
無報酬であり、本人にも遺族にも一銭の得にもならないどころか、1年以上、帰れない。
きっと、ご遺族も辛いだろう。鼻の奥が微かにつんとした。
私は「ありがとうございます。よろしくお願いします」と心の中で唱え、手を合わせた。

それから6人のご遺体を、2時間かけて見たりさわったりした。
私は気分が悪くなったが、必死に堪えた。
やはり人体模型や教科書のイラストと違う。ホルマリン処理をされているせいで萎縮していたり、変色していたり、硬くなってはいるが、細胞の構造や形は良くわかった。

「どうですか?」

 藤田先生に話しかけられる。

「凄いですね。人間の身体をこんなに良く見る機会がないので、感動します」
「そうでしょう。いいもの見せてあげます。これ、腎臓です」

まるでメレンゲ菓子のように乾いた腎臓を見せられる。造り物のように美しい。藤田先生は赤くなっている部分を指差した。

「これがマルピーギ小体です」
「ああ、なるほど」

おそらく、違う反応を求めているのだろう。どうしてもっと何か言えないのか。つまらない返答しか出来ない自分が情けない。せっかくご遺体を見せていただいているのに、大して気付けないことが申し訳なかった。

「そうそう、ダグラス窩、確認した?」

藤田先生は気を取り直すように口調を変えた。私は見学前の講義で、ダグラス窩に手を入れるように言われたことを思い出す。
ダグラス窩は女性にだけある、子宮と直腸の間の空間だ。
人体の最深部で、血や膿が溜まりやすいところだ。国家試験の頻出らしいから、しっかり見てくるように言われた。

「あちらに女性がいるから、行ってみようか」

藤田先生の後をついていく。女性の御遺体は他の方よりも若かった。
60歳前後だろうか。
どのような理由で亡くなられたかはわからない。
年に数回、献体登録された方と医学部の学生や研究者が、食事会をするそうだ。最後の食事会にこの方は現れたのだろうか。
どのような会話をしたのだろうか。
解剖する側は、献体された方の生前を思い出すのだろうか。

「ここから手を入れると、ダグラス窩だよ」

薄っすらとした陰毛の下の皮膚の内側を示される。
私は指先をそろりと潜り込ませた。
ゴム手袋ごしにぬるりとした感触がする。
中は狭いが、窮屈ではない。
それどころか、あまりにもぴったりすぎて奥へ奥へと誘うように、指が吸い込まれる。
ついに手首まですっぽりと収まった。
人体の内側に自分の手を深く入れているという現実は、自分の内側にも同じようなことが起きているような錯覚を起こし、私はお腹が苦しくなるような気がして、ダグラス窩から手首を引き抜いた。

「どうだった?」

微笑みかける藤田先生に対し、「ありがとうございました」と、私は頭を下げた。

解剖見学終了後、クラスメイトからランチに誘われた。
スイーツビュッフェに行くらしい。
皆、凄いな。良く食べる気になるな。
私は胃の辺りが重苦しいので、お断りして帰宅した。

家に到着するなり、早速、レポート用紙を広げた。
事後レポートを書いて提出しなければいけないのだ。
期限は明日の朝。
だから休んでいる暇なんてない。
看護学校は課題が多いと聞いていたが、これほどとは思わなかった。
ほぼ毎日のように課題が出る。ナイチンゲールの本を読んで感想を書け、生活習慣病について調べてまとめろ、など。
枚数はレポート用紙1枚か2枚で、PCは不可。
手書きでやらなければいけない。
看護書類を手書きで学ぶのは、カルテが手書きだった頃の名残だ。
今や電子カルテの時代なのに。
うちの学校の校舎は建て替えたばかりで最新設備なのに、中身は古臭いと私は思う。

どんなこと書いたらいいのかな、レポート用紙を前にしばらく止まっていた。
今日の様子を良く思い出す。
そうだ。マルピーギ小体の実物は、小さくて驚いた。教科書ではとても大きく書かれているので、あんなに小さいイメージはなかった。
こんな小さい管で尿を濾過しているのだから、異常を起こしやすいことを理解出来た。
ダグラス窩に手を入れてみたが深かった。
あんなところに膿が溜まったら、身体の表面ではなく奥の方が痛むだろうと思った。
人体の構造はとても緻密で、忘れてしまいそうな小さなパーツも皆、きちんとついている。良く出来ていると感じた。

落ち着くと、このような考えが浮かんできた。どうしてあの場で藤田先生にそう言えなかったんだろう。自分の頭の鈍さが嫌になる。

なんとかレポートを書き終えた後、強烈な空腹を感じた。
私は台所に向かう。
今、この時間に家にいるのは私だけだ。
父も母も仕事に出ている。
自分の食事くらい自分で作ろうと、冷蔵庫を開けた。

明太子の未開封のパックがあった。
食欲をそそる紅色が3腹並んでいる。
炊飯器をあけると、今朝のご飯の残りがある。
戸棚から海苔と、インスタントの味噌汁を見付けた。
メニューは決まった。
私はご飯をお茶碗によそい、レンジであたためる。
その間に明太子のパックを取り出した。
私が使うのは1腹だけ。後の2腹はタッパーに移しておこう。
習ったばかりの無菌操作で。私は箸先にふれないよう、慎重に箸を持った。

 【明太子の無菌的移動】
根拠:購入した明太子を乾燥と汚染から防ぐため、発砲スチロールのトレイから、清潔なタッパーに移動させる必要があるため
必要物品: タッパー、箸、皿(いずれもアルコール除菌済)」
実施: 箸を使い、明太子を無菌的に取り扱い、タッパーに移動した。テーブルの上は不潔なので、箸先がふれないように注意した。明太子の清潔を保ったまま、タッパーに移動させることが出来た。
学び・気付き:スポンジ部分に残った明太子をそのまま破棄してしまった。次回はスプーンでこそげとり、口の中に入れるべきだと考える。以上。

私はおにぎりを作り、マグカップに味噌汁を入れた。

「いただきます」

とても美味しい。でも、解剖見学の後に、内蔵に似ている明太子を生で食べるなんて、変態なのかもしれないと、ちらっと思った。
明太子おにぎりを堪能し、後片付けをしながら、ふと思った。
今日は時間があるから、家族の夕飯を作ろうかな、と。
クラスメイトには主婦が何人かいる。
学校から帰れば旦那さんとお子さんのご飯を作らなきゃいけない。
それを毎日するなんて、凄い。
私もたまにはやらなくちゃ。
冷蔵庫を覗くと、豚ロース肉。
頭の中に浮かんだメニューは、生姜焼きのキャベツ添えだ。私に作れるのは、そんなものくらいしかない。

今の私の家は父と母と私の3人家族だ。
姉はいるが、結婚して家を出ている。
ちなみに姉は現役で看護師になった。
私は短大に行き、都内の建築デザイン事務所に事務として就職した。
場所は青山なのに、給料は手取りで16万で、昇給は無かった。
看護師になった姉の余裕ある生活とやり甲斐が羨ましく、この年齢で看護学校に入学した。

入学前は本当に悩んだ。今から目指して一人前になれるのか、お金は大丈夫か、勉強についていけるのか。
不安と迷いだらけだったけど、私は看護師を目指すことに決めて、本当に良かったと思っている。

看護師の仕事はデメリットがあることも知っている。
排泄物や汚物を扱うので汚いし、仕事は肉体労働で夜勤もあるのでハード、女性ばかりの職場なので理不尽が多い、人間関係が悪くなりやすいなど、嫌な話はうんざりするくらい姉から聞いている。
それに世間的に看護師は社会的地位が高いような気もするが、低く見られることも少なくない職業だ。
私は何人かの知人や友人に看護学校の入学を話をしたが、3年間も勉強すると言うと、ほとんどの人は凄く驚く。
中には「3年も勉強することあるの?半年くらいでなれると思ってたよ」と言う人もいた。
かなり看護師を下に見ている。
おそらくその人は、看護学生の頭が悪すぎて、半年で覚えることを3年かけて勉強していると思ったのだろう。

確かに、高校からの進学先として看護学校はランクが低い。私の通っていた高校でも、成績がそれほど良くない子が看護学校に入学していったのを思い出す。

今は看護師も専門職として確立されており、大卒の看護師が増えている。看護は奥の深い仕事なのだ。
国立の看護学部は下手な医学部より偏差値が高い。
それほど優秀な人が看護師になっているのだ。
うちは専門学校だけれども、なんでこんな人が?と思うくらい凄い人がクラスメイトにいる。
3年で薄めてなんかいない。毎日たくさん学んで、課題を必死でこなして、看護師になるのだ。


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