なぜデザイナーの上級職が"アート"ディレクターなのか思案する
ゆえあって、今日は塩谷舞さん(@ciotan)のmilieu(@milieu_ink)より、こんな記事を読んでいた。
記事の中で、こんな文章が目に留まった。
「デザインとアート」の違いはよく議論されるところではあるが、それは明らかに性質が異なる。前者が人の生活を快適に、便利にするものだとしたら、後者は人生の歩みをわざと止めて考え込ませるような「異物」とも言えるだろう。
そこから、思考が記事の本筋とはまったく違うところに吹っ飛んでしまい内容に集中できなかったのだが、結果として面白そうなところにたどり着けたので、この場を借りて考えたことを共有してみたい。
テーマは、このnoteのタイトルでもある「なぜデザイナーの上級職がアートディレクターなのか」である。
異業種の方のための解説
どうもぼくのフォロワーはデザインに関心のある人が多いようなのだが、念のため解説しておこう。
広告代理店や制作会社に所属するデザイナーは、技術と経験を買われ昇進すると、「アートディレクター」という肩書きにクラスチェンジする。
アートディレクター (Art Director) とは、美術表現、芸術表現をもちいた総合演出を手がける職務を意味する。 商業活動のなかでは、広告、宣伝、グラフィックデザイン、装幀などにおいて、主に視覚的表現手段を計画し、総括、監督する職務である。 by Wikipedia
つまるところ、デザイナーが現場で手を動かす作業員であり、アートディレクターは作業員に指示を出す監督といったところだ。
(余談だが、さらに上位には、ビジネス上の戦略までを含めて広告にどのような表現を用いるのかを計画する「クリエイティブディレクター」という職種も存在する)
改めて思い返すと、なぜデザイナーの上位職は「デザインディレクター」ではなく「アートディレクター」なんだろうか?
デザインとアートの違い
さきほど引用した塩谷さんの述べる「デザインとアートの違い」は、個人的にしっくりくる内容だった。
デザイン:人の生活を快適に、便利にするもの
アート:人生の歩みをわざと止めて考え込ませるような「異物」
デザインの例
たとえば、服のデザイン。
見た人にどんな印象を与えるか? 他の服と合わせやすいか? 肌ざわりがよく快適に着られるか?
たとえば、部屋の間取りのデザイン。
玄関の近くに台所があれば、買い物の荷物をすぐに運びこめるんじゃないか? 子供部屋を通る際に必ずリビングを経由すれば、親子のコミュニケーションが生まれるんじゃないか? お年寄りが暮らすなら、段差が少ないほうがいいんじゃないか?
日常に寄り添うものであるからこそ、快適・便利が優先される。下手に奇をてらって斬新さを追求すれば、不快・不便なものになるからこそ、(いろいろな語弊はあるが)「普通」が良しとされる傾向が強い。
アートの例
キュビズムの創始者であるピカソは、「いかに現実を写実的に捉えるか」というルールの上で創作が行われていた20世紀初頭の美術界に、新たな価値観をもたらした。上の画像は彼の代表作『ゲルニカ』である。
現代アートの父・デュシャンの『泉』は、既製品の便器に彼のサインが記された作品である。アートに美しさを期待していると面食らってしまうが、その奇妙さは、見る人の心に新鮮な「違和感」をもたらす。
どちらも塩谷さんが言うところの「異物」の代表として遜色ないだろう。アートは、普通であってはならない。見る人がそれまでの人生で感じたことのない鮮烈な感覚を呼び起こしてこそ、アートを名乗るに値する。
アートは道楽なのか?
こうしてデザインとアートを見比べると、アートよりもデザインのほうがお金のにおいがすることを理解していただけると思う。
人々の生活を支えるものであるからこそ、デザインには需要がある。需要のあるところには、お金が生まれる。
反面、アートには需要が生まれにくい。現代人が満たされ、退屈しているのは事実だけれど、それでもやはり人は「異物」よりも、快適さ・便利さといった「実利」に対してお金を払う。
したがって、原則としてアートの良し悪しはビジネス、すなわちお金の動きとは無縁のものとして語られるのが一般的だ。
しかし、アートがビジネスに必要不可欠な世界がある。それが、広告業界である。
なぜ広告にはアートが必要なのか?
ひとことで言えば、普通であってはならないからだ。
広告の本質は状態変化である。買いたくなかった商品を買いたくさせる。行く気のなかったイベントに行きたくさせる。好きでなかった人を好きにさせる。接触した人をある状態からある状態に変化させることこそが、広告の機能といえる。
業界のベテランでもやってしまいがちなミスは、状態が変化しない広告を作ってしまうことだ。「このゲーム、楽しいよ!」というメッセージは、広告として機能しない。ゲームは人を楽しませるためにあるのだから、そんなことは言われるまでもなくわかることなのだ。
状態変化をもたらすためには、普通でない新情報が必要だ。これには、2つのアプローチがある。
ひとつ目は、新しい事実を伝えることだ。
世の人々が求めていた新しい機能を発明することができれば、それは非の打ちどころのない新情報になる。
しかし、現実的には、人材の移動や情報公開が活発になった現代において、他社が生み出せない新たな機能を発明することは難しい。「コモディティ化」している、という言い回しのほうが一般的だろうか。
肝心なのはもうひとつのアプローチ、既知の事実やインパクトの弱い事実を、新しい視点で見ることだ。
この広告を掲載するにあたり、ブラックサンダーは商品を一新していない。味も特徴もすでに知られている商品に対し、新しい活用方法を提示しているのだ。
この考え方は、写実的でない新しいものの捉え方を編み出したピカソや、便器に芸術作品としての価値を見いだしたデュシャンに通じるところがある。
すなわち、アートだ。
広告には鮮烈さが必要だ
ブラックサンダーの例はやや極端だが、いずれにせよ広告は、見る人に「未知に触れる驚き」を提供しなければ機能しない。
食べ物を魅力的に見せる採り方、美味しそうに食べる演技のやり方、商品名を覚えてもらう演出のやり方は、方法論が存在する。「普通の広告」を作ろうとすれば、いわゆるデザインの力を駆使すれば事足りるだろう。
しかし何度も述べているとおり、「普通の広告」は無価値だ。機能する広告を作るためには、デザインの知見にアートをつけ足すことが求められる。魅力的に、おいしそうに、覚えやすくすることに加えて、鮮烈な驚きがなければ、その広告にお金を生み出す価値は生まれないのだ。
アートディレクターの下地にはデザインの知見が必要だ
以上、広告におけるアートの必要性を述べてきたが、一方でアートディレクターにはデザインの知見も求められるだろう。
その理由は、原則としてデザインとアートはトレードオフだからだ。
価値が伝わりやすく、商品が魅力的に見えるように、といったベーシックなデザイン的発想と、そういったありふれた広告の世界に異物をもたらすアートの発想。広告の目的に応じて、両者のバランスを調整する能力がアートディレクターには求められる。
どちらをどの程度犠牲にするのか、あるいはどんな工夫で両者を両立させるのか。これを判断するためには、アート的要素を付与することでデザイン的要素がどの程度犠牲になるのかを推し量らなければいけない。
だからこそ、アートディレクターになるには、デザイナーとしての実務が必要なのだろう。
さいごに
広告を機能させるにはデザインだけでなくアートの要素を付与することが必要であり、デザインとアートをバランス調整を担うのがアートディレクターである、というのがこのnoteの結論だ。
アートディレクターが役割を果たせば、鮮烈な印象を残しつつ、人の行動もしっかりと喚起するような最高の広告が生まれる。
なんというか、デザイナーの方々に怒られそうなnoteを書いてしまったが、怒られたらまた反論記事を書こうと思う。
アドライター(@ad__writer)
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