アメリカ史を学ぶために岡田斗司夫さんのYoutubeの内容を書き出した①『コカコーラの歴史』


先日、アメリカの大統領選挙がありました。まだ事態は収束していませんが、これからの日本を考えていく上でアメリカの歴史を知っておくことは必要だと思います。教材として岡田斗司夫先生のYoutubeチャンネルを参考に、内容を書き出すことで自分の頭の中に落とし込めたらと思います。

ちなみに岡田斗司夫さんは取材や資料をもとに語っているのでとても信憑性が高いです。本編中で紹介されていた本がこちら

なぜコカ・コーラ本社はアトランタにあるのか

コカコーラ創業は1886年。アトランタ五輪会場跡地の横にあります。このあたり一帯は何も無い場所なのですが、どうしてここにコカ・コーラ社は出来たのでしょうか?

1886年とはアメリカ建国後最大の国難と言われる南北戦争(1861〜1865)が終わったところです。ちなみに、この戦争は奴隷制度を是とするかどうかで別れた戦争と言われています。南北戦争は英語で ”Civil War” です。直訳で市民戦争。Marvelのシビル・ウォーのタイトルと同じです。作中でトニースタークは強すぎる力は市民の民主的な意思によってコントロールされるべきという考えを持っています。これが民主党的な考えです。これに対してキャプテンアメリカ側は強い力は個人の責任において管理されるべきという個人主義に戻るべきだという共和党的な考え方をしています。これはどっちも正しくて、どちらが正義であるとも言えない対立です。アメリカではこうした対立自体が価値観なんですね。
ちなみに南北戦争をしていた時期は、日本の幕末と同じ頃です。

コカ・コーラの創業には南北戦争のアトランタ攻略戦が影響しています。アトランタは北軍の最終目標地点であり、1864年11月に北軍がアトランタの町中に火を放ち、南軍(アメリカ連合国)は降伏しました。

この先10年くらいアトランタは焼け野原になっていて何もなかったそうです。南北を統一して、一つになったアメリカを国民にアピールするために、アメリカ政府は莫大な予算をアトランタ復興に注いだそうです。そのために、それ以前よりも立派な街が出来上がりました。

南北戦争はアメリカに二つの産業を生みました。一つは新聞。戦況を伝えるために生まれました。映画『風と共にさりぬ』で、人々が激論をしているシーンがあるそうですが、その土壌は新聞というメディアの登場にあったと言われているそうです。

南北戦争後のアメリカ

そんな新聞のスポンサーは売薬会社。一面はニュースだけれども、二面からはインチキや怪しい薬の宣伝ばかりだったようです。戦争による怪我や病気への対応に薬が必要だったことと、新聞が流行った理由には関係があります。まず、土地が広くて医者が少ないこと、戦争で大怪我をした人が多いということで怪しい薬が台頭していました。
また、南部のアメリカは奴隷制ではありますが、割りと上品な国として知られていました。南部美人は日本の京女みたいに、憧れの的だった。その象徴がアトランタだったそうです。

しかし、復興によって発展した後は以前住んでいた人がアレっ?と驚くぐらい拝金主義の街になっていました。昔の南部では奴隷制度でも人の手による豊かさみたいなものがあったのが、お金による豊かさが大躍進してその雰囲気は無くなってしまったということでした。南北戦争後は、牧師さんも豊かになって北部の奴らを見返してやれというような事をアピールしていたようです。

このようにアトランタは新しく生まれ変わったアメリカの中心地でした。
その当時のアトランタでは金を稼ぐ事は全部正しくなったことで、インチキ薬の総本山になりました。アメリカのインチキ薬の大半の販売元はアトランタだったようで、当時の新聞の広告にも販売元はアトランタと書いてあったようです。

これらの薬を売り出すために新聞広告を利用したので、アメリカの新聞広告のほとんどは薬品の広告、それも街の医者が勝手に作った、薬効もろくに確かめていないような噂話だけのそういう新薬が出てきた。医者も少なく国土も広いので、売薬産業は今でいうところのIT産業のような国家事業だったようです。

コカコーラ社は1886年にこのような時代背景のアトランタに生まれました。ちなみにアトランタ市はジョージア州にあるので、コカコーラ社のコーヒーはジョージアという名前になっています。

コカコーラは薬として売られていた

そのようなアトランタでコカ・コーラは薬として売られたのです。

ちなみに薬効は、食欲不振、頭痛、男性の不能回復、体調不良、二日酔い、神経痛、など思いつく限りの効能が書かれていたそうです。

創業者のジョン・ペンバートン博士は真面目にコカコーラは万能薬になると信じていました。南米から取り寄せた当時の最先端のアルカノイドであるコカの葉を原料に使っていて、他のインチキ薬とは比べ物にならないくらい効果がありました。元気のない男性がたちまち働き出したり、毎日頭痛を訴えているご婦人がたちまち朗らかになりました。それはコーラに含まれる麻薬成分であるコカインのおかげなんですが、当時のコカインは非合法の麻薬ではなく、世界を救う究極の薬品と考えられていました。

ペンバートン博士とはどんな人物なのか

コカコーラは素晴らしい薬だと言っていたペンバートン博士自身には未来がありませんでした。どういうことかというと、彼は南北戦争で受けた傷があり、その痛みを緩和するためにモルヒネを使っていました。しかし、そのために重度のモルヒネ中毒者になっていたのです。もうペンバートン博士に残された時間は限られていました。自分自身のためにもコカ・コーラの開発を行っていたんですね。ちなみに発明後の2年後に死んでしまいます。

彼は死ぬまでに薬品工場をちゃんとしたものにして、コカの葉を使った究極の薬品を世に出したいと考えていました。

ペンバートン博士が目指した万能薬

ペンバートン博士はコカインを元に万能薬を作ろうとしました。そのターゲットは富裕層の男女でした。南北戦争で南部は農業国から工業国へと変わっていきました。都市生活のストレスが増えたのです。新しい需要が生まれていたのです。

それまで農業が中心だった頃は日が昇ったら農場行って、仕事して、日が沈んだら家に帰って、雨が降ったら休むという自然な世界で過ごしていました。それが9割方のアメリカ人が工場行って、時間通りに動く生活になりました。それが大変なストレスになっていたのです。都市化のストレスで神経症が増え、不安、不眠、頭痛の訴えが増えたのでした。

セレブの証明

神経症が増えたのには理由がありました。南北戦争後も農業はもちろんありましたが、戦後の新しい社会に適応したというアピールをしたい人が、わざと頭痛や神経症を訴えていたらしいのです。その当時のセレブの病気といえば、体を動かさずに微食ばかりしているので、消化不良というほもありました。そこで注目されたのが、ヨーロッパの天然水、炭酸水です。

炭酸入りの天然水は当時はヨーロッパでしか採れなかったので、セレブはヨーロッパの水源に行って炭酸水を飲んでいました。食欲不振だから炭酸水飲むというのが、当時は一番カッコいい事でした。炭酸水を飲む事が健康法の一つだったのです。

ヨーロッパこ天然水だけでは足りなくなってきて、ドイツでは『固定された空気』という人口炭酸水が作られました。その機械がアメリカにも導入されました。その頃、ヨーロッパでも炭酸水が飲まれていました。当然のように薬局で炭酸水が置いてあるような時代でした。

若者の社交場ソーダファウンテン

アメリカでは薬局で炭酸水専用のブースが出来ました。ヨーロッパの天然の泉をイメージさせるために『ソーダファウンテン』という名のブースが設置されました。イメージとしては、バックトゥーザ・フューチャーで学生がソーダ飲んだりコーラ飲んだりしていたあの場所をソーダファウンテンというみたいです。それが薬局に置いてあったのは、それは炭酸水が消化不良の薬として売られていたからです。炭酸水を飲んだだけで消化不良が治ったとか頭痛が治ったとか言われてたので、薬局の隅にソーダファウンテンを作り、それが段々と大きなくなっていきました。こうして薬局が若者の社交場になっていきました。

ペンバートン博士はそこに炭酸水で割る薬というのを作ろうとしていました。当時、オレンジのシロップなどが出来上がっていました。それのように出来ないかと考えていたようです。

禁酒法とコカ・コーラ

ぺンバートン博士は馴染みのジェイコブズファーマシー(のちにコカコーラを売り出す薬局)の角で新聞を買いました。例のインチキ薬ばかりの広告の新聞を見ながら、アトランタ市議会が禁酒法をアメリカのどの州よりも先んじて可決させようとしている記事を見つけます。やっぱりと思った博士は自分が借りている薬局の二階の部屋に行ってペルーから届いたデッカイ荷物を開けました。魔法の植物コカの葉とコカインの抽出用のろ過装置です。ペンバートン博士は禁酒法が成立すると、お酒の代わりの飲み物を皆んなが欲するだろうと見込んでいました。酒が飲めなくなったら、薬局に行って酒みたいな飲み物を飲もうとするだろうと。ペンバートン博士は魔法の葉っぱから抽出したコカインで、美味しくて、健康に良くて、どんな病気にも効く薬が出来るはずだと考えました。

コカインにまつわるエトセトラ

ちなみにコカの葉はインカ帝国の宗教儀式にも使われて、コカの葉を噛んでいる限り、インカの奴隷たちは何十時間も働いたなどと言われています。

コカインはヨーロッパでもウケていました。当時、流行っていた精神分析のフロイトもコカインを褒めていました。自分にも使い、患者にも処方していたそうです。そうしてコカイン中毒患者を山のように作ってしまったという事実もあるようです。

余談ですが、フロイトは婚約者のマルタ・ベイナイスに送った手紙に次のように書いていたそうです。

コカインは素晴らしい。男性機能を高めてくれる。次にお前に会った時には真っ赤になるまでキスをして、コカインでたくましくなった男でヒィヒィ言わせてやると。

本当にこういう手紙が残っていたらしいです。

他にもコカインの効能について書かれたものはいくつかありました。山登りの時にコカの葉を噛み続けたら、食事を摂らずに山登りを続けられてその上全く疲れない、と。これは凄い万能薬だと言って副作用の事は全く気付かずに、凄いアルカノイドが見つかったと言っていたそうです。

他にもイタリアのビン・マリアーニという人がコカインに注目し、麻薬ワインを作っていました。このワインはトマス・エジソンやビクトリア女王も飲んで、紹介文まで書いていたそうです。エジソンはこれを飲むと寝なくてもめっちゃ働けると書いていたそうです。

また、当時のローマ法王のレオ13世も死んだ後の伝記に、信じられない程のほんの少しの食事とワインしか飲まなかったと書いてあった。(実はそのワインはコカイン入りのワインだった。)しかし、神を信じるその心はギラギラと目を輝かせていた。あれっぼっちの食事とワインで、なぜあれほどの強い目の輝きを出せるのだろう。と。

『コカコーラ帝国の興亡』という本を書いたマークベンダーグラスという人は、それは信仰心ではなく麻薬中毒だったからだと言ってツッコミを入れています。

『フレンチワイン・コカ』と禁酒法

ペンバートン博士はコカの葉と、アフリカ原産のコーラの実(現地の部族も興奮剤として使っているカフェインが4%入ってる実)の両方を使うというとんでもないことを思いついて、この2つを混ぜてアメリカ初の麻薬ワイン、フレンチワイン・コカを誕生させたのでした。

フレンチワイン・コカは物凄い売れましたが、その直後にアトランタ市議会が全米に先んじて禁酒法を成立させました。禁酒法は1920年に全米に一斉配備したのではなく、まずアトランタで施行されてその後次々と都市や州で成立されていって、最後に連邦が全アメリカとして禁止したのいう流れになっています。これがきっかけで、1920年にアメリカでイタリアンマフィアが伸びるきっかけになります。

禁酒法が成立してから一年間は施行まで猶予期間があり、その間に人々は酒が飲めなくなるからと、酒の代わりになるドリンクが流行りました。酒屋で飲んでいた男女がお酒が飲めなくなるからと、酒の代わりを求めて薬局のソーダファウンテンに通うようになります。酒が飲めなくてイライラするといって、イライラを収めるものを求めました。

ペンバートン博士はフレンチワイン・コカのアルコール成分を抜いて、ソーダファウンテンで売ることを思いつきます。それが、コカコーラです。しかも、一杯5セントと安かったのです。酒の1/5〜1/10の値段であったが、酒よりもはるかに気持ち良くなれたと有名でした。

薬物としてのコカ・コーラ

当時は原液を薬局の店主が1/20くらいに炭酸水で薄めなくてはいけないものを、店主が適当にやっていたので、原液の薄さは店主次第となりました。なので、チップをもらったら、4倍くらいの薄さのものがガンガン飲むことが出来たとのことです。コーラを飲みに来た子どもは、まっすぐ歩けないくらいフラフラで、3日くらい目が爛々としていたそうです。

この件はのちにコカコーラ裁判と呼ばれる裁判で、有毒なコカインでアメリカ中の子どもをコカイン中毒にしたとされて訴訟されました。このような事があり、コカコーラからコカインが撤去されることとなったのです。

ただ、コカインの中毒性が世に広まる前だったので、コカコーラは売れに売れました。しかし当時の中心人物たちが揉めていたので、事業拡大は出来ずにいました。ペンバートン博士はモルヒネを買うために誰から構わず、一緒にコカコーラを売らないかと小さな事業をたくさん立ち上げていました。そのせいで、その後で権利が分散しまくってしまい、どこがコカコーラの正式な製法の特許を持っているか分からなくなるという事態になったからです。

コカコーラの権利

その権利を持っている中でも有名なのが、フランク・ロビンソンで、コカコーラという名前をつけた人で、ロゴデザインを自分で作った人。
もう一人、エイサ・キャンドラという女性も権利を持つ人の一人です。アメリカ中にコカコーラを広めた2代目社長になった人です。

開発後2年でペンバートン博士は死んでしまいました。エーサ・キャンドラは遺族に何の権利も与えずにコカコーラ社をのっとったのですが、20年も経たずに他の人に乗っ取られてしまいます。そんなキャンドラの仕事は、最後までオリジナルのレシピに拘ったことでした。そして、渋々コカインの成分を全部を取り除いた事でした。

キャンドラはエグいビジネスマンではあったが、コカコーラへの愛情はペンバートン博士以上だったと言われています。コカインの除去に関しても、コーラ一杯5mgまでは有害では無いなど訴えていました。カフェインの分量も紅茶以下だと、誰が紅茶を有害という!と言っていました。

しかし、コカコーラ社の幹部たちの説得により、1900年、オリジナルレシピのx4というのからコカインが取り除かれたのです。

人種差別とコカコーラ

さて、コカコーラのレシピは世界でも数人しか知らないと言われています。レシピは社長と副社長しか知らなくて、2人同時に飛行機に乗らないなどの噂があるほど秘密にされていたイメージがあります。

ペンバートン博士は当時も珍しい漢方医でありましたが、コカコーラ以外にもいくつか薬を作っていました。何種類も薬を調合していました。アトランタでは知らない人が居ないくらいの名手でした。

そんなペンバートン博士が作ったコカコーラは、当時は有害であるとは認識されていなかった興奮作用のあるコカの葉と覚醒効果の強いコーラの実で作ったドリンクであった。

いわゆる興奮作用があって疲れが吹っ飛んでしまういわゆるアッパー系のドラッグでした。コカコーラは原材料からとったシンプルでわかりやすい名前ですが、1959年、当時の社長は『我がコカコーラはコカの葉とコーラの実からとったという噂があるが、根も葉もないデマです。単に語呂が良いという理由だけです』と証言しています。

コカコーラは薬として売っていたので、売りは薬としての効力でした。スカッと爽やかな飲み物として売っていたのではなくて、頭痛や神経痛を治して、リウマチの痛みを一瞬で止める薬として売っていました。しかし、なぜ皆んなコカインの成分を欲しがっていたのでしょうか?


19世紀は産業が加速し、経済が加速し、貧富の差は激しかったが誰もがみんな金持ちになれると信じて猛烈に働きたがっていた時代だったようです。
そこで寝ずに働ける作用があるコカインの興奮作用と、コーラの実の覚醒作用はみんなが求めていたものだったのです。2代目社長のエイサ・キャンドラはコーラの消費ターゲットに工場勤務の白人を選びました。

だからと言って黒人にコカインは不要と思われていたかというと、そういうわけではなかったようです。南部には、奴隷解放宣言のあとも奴隷農園が残っていました。奴隷たちは食事の代わりに、三食のうち一食はコカの葉だったようなのです。それも当然のように使われていたようです。

そして、黒人たちは自分達がどれだか疲れているのかもわからないまま、倒れるまで笑いながら働いたと言われています。

キャンドラはブランドイメージのために頭脳労働者にこそコカコーラを飲んでもらおうとしました。そういったキャンペーンを打ちました。ところが、現場の人たちは5セント払えば誰にでもコーラを売っていたのです。

そんな状況で、事件が起こります。

黒人の労働者が白人雇い主をを襲ったとか、黒人男性が白人女性をレイプしたという噂がアトランタ中に広まったのです。至る所で黒人をリンチにかけたという噂がありました。それにまた怒った黒人達が反撃したという噂が流れました。そして、アトランタ人種暴動が発生しました。

噂には尾ひれがつきました。白人を襲った黒人は気が狂っている、と。

その黒人は麻薬をやっているらしい、麻薬はコカインらしい、黒人は白人の飲み物のコカコーラを飲んで気が狂ったらしい、白人みたいに理性がはっきりしている人間はコカインを飲んでも大丈夫なんだけど、黒人みたいな理性が無い人種は理性が無いからコカインを飲んだら白人を襲ってくる、白人の女性をレイプしにくる、という噂が流れて、黒人の暴動の原因はコカコーラだということになってしまいました。

レイプの段階から事実では無かったようなのですが、この暴動はコカコーラ社に大きなダメージを与えました。事実上発売中止の裁判まで起こされてしまったのです。

ソーダファウンテンのオヤジたちは数倍の濃度でコカコーラを売っていたのは事実だけれども、それはコカコーラ社の指示では無かった。20倍くらいに薄めれば安全だったのが、どれだけ薄めるかは現場のオヤジたちに任されていたために、数倍の濃度でほいほい売られていたために黒人達がコカイン中毒になってしまったのではないかと言われたそうです。

キャンドラ社長もついに折れて成分からコカインを抜くことにしました。そして、販売をソーダファウンテンではなくボトリング(正しい比率で炭酸水で割る)にしました。しかし、ボトリングにはペンバートンもキャンドラも嫌がっていました。
なぜかと言うと、原液を割っている限りはコカコーラは薬品として扱えた。ところが、ボトリングされてしまうとどこで売られるかは制御出来なくなるため、コカコーラはただのドリンクになってしまうからでした。
しかし、暴動の理由にされているソーダファウンテンのオヤジたちが20倍の希釈を守らずに売ってしまうので、仕方なくボトリングする事を決めました。

コカコーラボトル

ボトル瓶の形も変わっています。

一つ目でアメリカ中にコカコーラが知れ渡り、菱形ラベルのブランドを作るが、偽物も出てきました。どうやって偽物と区別させるかということで、メイウェストという女優のプロポーションのようだという事でメイウェストという名前のボトルで差別化を図りました。ちなみに1916年に作られました。
コカコーラ社はボトリングにより、黒人の暴動とは無関係という判決を得ました。

コカコーラのレシピ

コカコーラ社の保管庫に秘密のレシピがあるとされています。しかし、実際のところはペンバートン博士はヘロインのお金欲しさに色んな人にレシピを売っていたので、秘密でも何でもなくなっています。

コカコーラ社は、大したことないレシピのブランド力を守るために『レシピは謎です。何人しか知りません』ということにしてあるそうです。

学んだこと

コカコーラ本社がアトランタにある理由は、南北戦争と関係が深いことが分かりました。

工業化された社会に適応するためにコカインとカフェインが求めらてたこと、禁酒法によってお酒に代わる飲み物が求められたこと、そこに生まれる社会階層とその誇示のためのキャンペーンが打たれたことなどが新しく知ったことででした。

中でも面白かったのは、新聞広告と製薬業の関係と、インチキ薬がそこまで幅を利かせるような社会が出来上がっていたことでしょうか。

コカ・コーラの歴史を通して、当時のアメリカ社会の雰囲気であったり、人々はどんなことを考えて生活していたのかということを知ることができました。面白かったです。


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