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境界を生きるということを描くアニメ

まだまだ鬼滅の刃、流行っていますね。自分はテレビ版をabemaTVで見ただけの人ですので、鬼滅の刃を語るには人よりも情報量が劣っているわけですけれども、思うところがあり語らせていただきたいと思い、こうして記事を書かせていただいています。

鬼滅の刃と東京喰種

『鬼滅の刃』については改めて説明する必要はないかもしれませんが、人間を食ベる鬼と、鬼から人間を守るために鬼を倒す部隊が結成され、その渦中に主人公が巻き込まれていきますね。立場の違う生き物が、互いの生存をめぐって人知れず戦っている状況がある中で、主人公の妹が鬼になってしまいます。鬼滅の刃では、妹を元の人間に戻すために、2人は戦いに身を投じていきます。これに似た構造が描かれていた作品で、少し前に流行った作品がありました。

そう、ご存知、『東京喰種』です。これも人間と喰種(グールと呼ばれる人間を餌とする亜人)が対立しています。そんな社会状況が舞台になっています。こちらでは人間だった主人公が喰種になってしまいます。対喰種の自警団が組織されている事や、そんな対立する状況の中で話が進んでいくなど、類似点が多いです。

・鬼や喰種は少数派で身体能力が高く、人間を食べるという点。
・鬼や喰種を討伐、駆逐する部隊が組織されている点。
・主人公はどちらの側にも理解を示すことができる点。
・主人公は境界線上にいる立場であるという点。

上記が大きな共通点のように思います。

僕にはこれらの設定が、現実社会が抱える問題のメタファーや、今を生きる人たちの心の景色として描かれているように感じるのです。私たちは様々な境界線の内側と外側に生きていることや、直接命のやりとりをしないまでも経済的に生存が脅かされている社会で、サバイバルをしている事などが挙げられます。

あちら側とこちら側

世の中にはいろんな境界線があります。
性別や人種、国籍、性格、地域や年齢、趣味、職業など様々な属性を持っています。その属性や特性をどのように切り取るか、またその切り取ったものの扱い方が重要になってきます。

様々な要素の切り取り方については様々ありますが、根本的なところは『自分と他者の境界線』だと思います。自分の内側と外側、他者との境界線。これを拡大していくと男と女、自国と他国など解釈拡大したり、逆に限定的に狭めたりして差異を区分していきます。その区別が差別を生み出して、立場の違いから争いが生まれたりします。今回は「外国人」を例に挙げて話をしていきたいと思います。

境界のテーマ

なんでアニメを見てこんなことを考えているのかと言うと、アニメは世の中を象徴していると思うことが多いからです。

僕が見ているものに偏りがあるのは否めませんが、先ほど挙げた『鬼滅の刃』、『東京喰種』だけではなく、『進撃の巨人』などといった流行したアニメが「境界」をテーマにしていると思っています。

『鬼滅の刃』と『東京喰種』では種族の境界があります。人間の側からすると他の種族から食い物にされている/されるかもしれない恐怖が描かれています。しかし、喰種や鬼の側からすれば人間しか食べられない種族であるため、生きるために行っている当たり前の営みであります。また、同じ種族の中にも飢えをしのぐため、生きるためだけではなく、嗜好性のために食べるなど様々な立場がありますので、同じ種族の中の境界線があり、そこで対立している様子も描かれていました。

『進撃の巨人』では城壁の内と外という境界線が引かれています。城壁という境界線が破られ、侵襲される体験が描かれています。圧倒的に自分たちが敵わない相手から侵略されてしまいます。その中でもあきらめずに抗う人たち、恐れをなかったことにして日常を生きる人たち、更に境界を築いて既得権益を使って安全を確保しようとする人たちなど、階層構造からくる分断を描いたりもしていました。

その境界があるために、登場人物たちがどうなっていったのか。孤独、絶望、対立、喪失。そこで語られるものが私たちの生活に重ねて見ることもできます。むしろ、大人はそういう見方をして学ぶべきだと思っています。

アニメだってそういった見方をすることで教養にすることができます。これはアニメの社会的価値を上げることにもなりますので、産業的な意味合い以上に重要なことなのではないかなと思います。

実社会との重なり

最近では大きな都市でなくても、外国人を日常的に見かける機会は増えてきています。むしろ、生活の中に居ることが当たり前にすらなってきました。「外国人」という言葉には、自分たちとは異質であるという意味合いが強いので、今ではもう「外国人」という言葉が合わないとすら感じます。

ですので、日本にいる外国籍の方や異人種、異民族の方に対してどう付き合っていくのかを考えざるを得ない状況になってきていると思います。

僕自身もアメリカに住んでいたことがあります。小学校6年生の春から中学校3年生の冬までアメリカのミシガン州に住んでいました。

そこで、自分の思春期のアイデンティティクライシスと時期が重なったことと、日本人であること、多くの日本人とは違う人生を歩んでいることで、自分のアイデンティティが脅かされる体験をしました。

幸いにも日本人だからといって差別の対象にされることはありませんでした。しかし、日本の事も良く知らない自分が、日本の文化やアメリカとの扱い違いをどういう風に扱っていくか決めきれず、とても悩んだことを覚えています。(勉強すればよかったのにと思います)

ちなみに差別の問題は、世界各国でも特にアメリカの歴史を見るととても参考になります。多くの民族が移住しに来てその度に差別を繰り返してきています。これからの日本には外国人労働者が必要だと言われています。ですから、この問題は日本がこれから抱える問題でもあると思います。ですから、私たちはこのテーマについて考える必要があると思います。

すでに始まっているところと、まだこれからという地域もあるとは思いますが、若者が少ない地域こそ考えざるを得ない問題なのではないでしょうか。(アニメは若者向けのメッセージツールなので届いていない?)この問題は、私たちがしっかりと考え向き合っていかなければいけないと思います。

境界上のアイデンティティ

『鬼滅の刃』や『東京喰種』の作中の主人公は、境界のどちらにも行き来できる特性があります。ある意味でどちらにもなれますし、しかし、どちらにも慣れない存在でもあります。個人が個人であるしか居場所がありません。生きる道と言うと大げさかもしれませんが、それしか道がありません。

そんな中、彼らにも理解を示そうとしてくれる人がいます。自分の道を探していく中で、自分の存在を肯定したり、反発し合いながらも受け入れられます。その人たちとのつながりがあるからこそ、そこが居場所になり、自分のアイデンティティを生み出して個人になっていけるのではないでしょうか。

自分と他者は違うものであるという認識もアイデンティティの形成には必要ですが、もう一方で受け入れてくれるものがなければ、自分のアイデンティティを強固に形成することが難しくもあります。

境界を超えてしまった人、超えられなかった人、その境界の利権をめぐって争いが起こりやすいことは事実です。しかし、日本国民が『鬼滅の刃』の炭次郎や禰津子に共感できるのだとするならば、その生き方がいかに大変かが分かるはずです。目の前に居る人は炭次郎や禰津子かもしれません。そう考えて人に優しくなりたいものです。

まとめ

アニメは社会情勢を反映していたり、象徴していたりします。

今流行りの『鬼滅の刃』に、僕は差別や人種の問題が象徴されていると感じました。そして、この流れはこれから加速していくと予想されています。

これらが加速すると単に2つの勢力の対立が生まれるだけではなく、その間の存在も生まれてきて、彼らは更にマイノリティとしてアイデンティティの確立が難しくなります。しかも、経済的に苦しい社会情勢の中でサバイバルしながらそれを成していことになります。

私たちみんなが、より幸せな社会を築くためには、彼らを見放さず手を差し伸べていくことが重要になってきます。

実は、みんなそれを知っているのかもしれません。しかし、なかなかどうしてそれがうまくいやれなかったりします。境界を認識すると向こう側が敵であるかのように感じてしまうようです。でもそれが面白くもあります。

私たち人間は、愚かでしょうがない生き物です。人間のそこが憎らしくもあり、しかし一方で愛しくもあります。

私たちは何とかやっていかなければいけません。その方法論は既にどこかにあるのかもしれません。しかし、本当は理屈をこねこねすることよりも、「困っている人が居たら助けようとする気持ちや行動」が大事なのかもしれないですね。

やっぱり理想は、優しくありたいですね。

最後まで読んでいただきありがとうございました。


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【令和版】アイデンティティの探し方

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