karia

編集・ライター。50歳を過ぎると昔のことがはるか遠く前世のようにおぼろげになってくるので、今のうちに書き留めておくことにしました。去年母が亡くなり、この世で一番憎い父親をサシで介護する独身ひとりっこ女です。よろしくお願い致します。

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編集・ライター。50歳を過ぎると昔のことがはるか遠く前世のようにおぼろげになってくるので、今のうちに書き留めておくことにしました。去年母が亡くなり、この世で一番憎い父親をサシで介護する独身ひとりっこ女です。よろしくお願い致します。

最近の記事

暴走老人、フライパンで食器を叩き割って、「ぶっ殺すぞ!」と娘を恫喝する・・・

母亡き後、大嫌いな元DVの浮気親父89歳と暮らす毎日。 そもそも30年以上まともな会話をしていなかったので、2人きりになったからといって、楽しく過ごせるわけはない。 しかし、父は明石家さんま並のおしゃべり好き。(内容はさんまさんと違って、自分の自慢話と他人の悪口のみ。)母が生きているときは、壊れたラジオのように朝から寝るまで「俺がどんなにすごいか話」を言い続けていた。 母が死んでからは、それを私に聞かせようと寄ってくるので、逃げ。 言い返せば、もちろん喧嘩になるからである。

    • 母の介護は終わったが、まだ父がいた件

      母がお空に旅立ったら、なんか大変な生活が終わる気がしていたが・・・まだ89の父がいた。なぜ残る。だから、母より先にお空に旅立てと言ったのに。涙。。。 父は典型的な昭和一桁男。 料理なんてできないし、生活全般よくわかってない。 しかも、うるさい。 しかも、私と仲が悪く、45年くらい大した会話もない。 ついこの間まで暴れん坊で、殴る蹴る、70歳くらいまでは浮気は当たり前。 母が具合悪くても、「死んだら死んだでいいんだ!」と言って、なーーーーーーんもせんかった爺さん。(ケチなので母

      • 訪問医なんて呼んでも来ない

        しばらく間が空いてしまいました。 母は6月5日にお空に旅立ちました。 5月頭に腸閉塞になって、市の医療センターに救急車で入院10日→都内の緩和ケア科に入院約3週間。 緩和ケアは、コロナ禍でも家族2人まで毎日面会できるところを探し、なんとか入れたので、大満足の見取りとなりました。 なので、後半は良かったのですが、途中の「訪問医+訪問看護」の時期がやはり一番ドキドキで、心の負担が大きかったように思います。 訪問医というのは、普通の医者と全然違うんですね。なんていうか、「頼れる度

        • 介護ベッド様の威力。余命1週間から、88歳末期がん母の食欲復活。

          先週からついに布団にはり付いたままになった母。 それまではマッサージチェアにはり付いていて、「介護ベッドなんてヨボヨボがつかうものはいらん!」と言っていたが、今週火曜に来た訪問看護さんに「入れたら楽だよ〜、入れる?入れちゃう?入れてもいい?」と言われ、「そうですね、、、」と言ったのを聞き逃さず、速攻レンタル取り寄せ。 昨日の夕方到着したが、母はそこにしぶしぶ乗ったとたん、、、 「うん!これは楽だ!」 といい、今度は介護ベッドから動かなくなったw 介護ベッド様の威力がす

        • 暴走老人、フライパンで食器を叩き割って、「ぶっ殺すぞ!」と娘を恫喝する・・・

        • 母の介護は終わったが、まだ父がいた件

        • 訪問医なんて呼んでも来ない

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          やっぱりなんとなくある患者争奪戦

          先々週、桜が咲いたので(もしかしたら今年最後かもなので・・・)母に見せようと「タクシーで近所のお寺まで行って、お花見する?」と言うと、父が「オレが連れて行く」という。ので、お任せしたら、なんと末期がん患者でトイレに行くのもヨロヨロしている母を2時間休みなく歩かせたらしい。恐るべし、昭和ヒトケタのジジイ。あっぱれな気の利かなさ。 おかげでその晩から、母はガクンと弱ってしまった。 「このまま悪くなってしまうのかしら・・・💦」と思ったが、あっぱれ、昭和ヒトケタのババア。なんだか2日

          やっぱりなんとなくある患者争奪戦

          スキルス胃がん高齢者の食欲のなぞ

          母は88歳、スキルス胃がん。スキルスは目視できるようになると、もうかなり進行していると言われる。母は緩和ケアを望んでいるので、抗がん剤もないし、薬もない。ただ自然にまかせているので、当然食べられる量はだんだん減って来ている。2月上旬は「子犬くらい」食べたが、3月上旬は「猫くらい」になり、最近は「ねずみくらい」になったりしている。 しかし。好きなものなら「猫くらい」になる不思議。昨日も、母の好きな「明太フランス」を買って来たら「わー!おいしそう!」と珍しく明るい声を出し、いそ

          スキルス胃がん高齢者の食欲のなぞ

          20歳まで死にたい気持ちだったけど、バリに行ってから生きることが平気になった

          生まれてから20歳までは毎日死にたい気持ちでいっぱいだった。 まあ、適度に父は暴力&浮気の激しい人だったが、そういうことだけでもなく、毎日生きていることが楽しくないし、なぜか哀しいし、「存在すること」がもう大変で仕方なかったわけで。 生まれる前の記憶がなまじあるので「あの宇宙でぐうぐう寝ている感覚が幸せ」と思っていて、「早く帰りたいなぁ」と思っていた。 でも自殺は痛そうだし、母が泣くのが可哀想だからできなかった。 「寝て、そのままスーッと逝けたらいいのに・・・」 ひたすらそう

          20歳まで死にたい気持ちだったけど、バリに行ってから生きることが平気になった

          これが地域包括ってやつ?

          88歳、糖尿+徐脈のペースメーカー+スキルス胃がんの母。 本人は「食べられないだけで、どこも痛くないし、まったく普通」と言い張っている。ネズミくらいしか食べれないのに、なぜかちゃんと普通の便も出るらしい。 そんな母が、ゆうべ食後に始めてお腹をこわした。「痛い」という単語が出たのが初なので、「いよいよがんの痛みが来たのか!?」とドキドキしたが、今朝は「もう平気」と言って、ちょっぴりおかゆも焼き鮭も食べた。 でも、いつなんどき何があっても安心なように(私が。)、医療センターに外

          これが地域包括ってやつ?

          独身ひとりっこの介護、スタート

          「いつか来る」とは思っていたが、ついに来た両親の介護。 私には7つ上の姉がいたが、25年前にスキルス胃がんを突然発症して36歳の若さで、ダンナと幼子2人残して他界した。 その日から「いつかは両親の介護&看取りをひとりでやるのか・・・」とウツだったが、忘れたフリをして日々自分のことだけを考え、お気楽に過ごしてきた。 が、、、突然その日は来てしまった。 2019年の暮れも押し迫った12月29日。 88歳の糖尿持ちの母が3カ月ぶりにかかりつけ医に定期検診に行き、数時間後。いきな

          独身ひとりっこの介護、スタート

          生まれる前に、誰かに「今度はあの家族のところへ行け」と言われた記憶

          私の人生、最初の記憶は上の方の暗い空間で、こんこんと眠っていたことろから始まる。なんとなく憂鬱な気分で。 眠りながら、たくさんの夢を見ていた。それは白黒で、自分が生まれるより少し前の、親の田舎の風景。7歳年上の姉が縁側で赤ちゃんを抱いていた。あれは私じゃないかと思うのだけど、よくわからない。 夢の中で、今の家族の様子を俯瞰で見ていた。 赤ちゃんの姿もあった。 そのうち、上の方から声がした。 「今度はあの家に行け」と。「あの家族の次女になるのだ」と。 それから声は、

          生まれる前に、誰かに「今度はあの家族のところへ行け」と言われた記憶

          出版不況になったのはWebのせいじゃなくて、本を縛ったからだと思う

          私には7つ上に私より出来がいい姉がいて、子どもの頃、勉強がわからないと教えてもらう…ことはなかった。 わからないと言うと「バカじゃない!?」と言われ、マッハの早さで「こうでこうでこうなるからこうなの!わかった!?」と説明されるので、もちろん分かるわけがない。するとまたひとしきり罵倒される。だから、姉に勉強や分からないことを質問することは避けていた。 そこにいくと本はいい。分からなくても、黙って優しく何度でも教えてくれる。自分の脳の回転に合わせて、いつまでもつきあってくれる

          出版不況になったのはWebのせいじゃなくて、本を縛ったからだと思う

          毎日痴漢にあった小学6年生の話

          私が最初に日本という国に絶望したのは、今から約40年前・小学校6年生のときだった。毎日電車に乗るたびに痴漢にあったのだ。しかも、毎回違う人に。ということは、満員電車で小学生のまわりを取り囲む大人5、6人に1人が小学生のお尻を触る計算になる。そりゃ、この国に絶望もするよ。 その頃、古くなった家を建て替えるために、小学校6年生の秋から冬の3カ月間だけ、親戚の家に家族で居候した。親戚の家は電車で10駅くらい離れたところにあったので、初めて電車通学をすることになったのだ。 40年

          毎日痴漢にあった小学6年生の話