彼の気持ちを考える。

兄が亡くなった。

私は3人兄妹の末っ子。
上には五つ離れた兄と四つ離れた姉がいる。

兄はいた。

某日23:00頃、姉からの訃報。
理解が追いつかず、一先ず床へ着くものの眠れず。
翌朝6:00頃、母と父に電話するも両方とも出ず。
暫くして、母から折り返し。
「びっくりさせたね。」と一言。
「とりあえず帰ります。」と返す。
暫くして、父から折り返し。
「ごめんな、本当にごめんな。」と一点張り。
「とりあえず帰ります。」と返す。

「とりえず帰ります。」と言ったものの
「この人達にご飯を食べさせなきゃ」が本心だった。
この状況、放って置くと3、4日は何も食べないだろうと思い
急遽、東京から山口へ7:00頃の新幹線で出発。
通夜や葬式でそっとしておいてくれる人は居ないだろうと思い、
車内では心無い事や小言を言われた時の返し方をひたすら考えていた。

「家業は誰が継ぐの?」
A「葬儀の日にそんな事聞かないで下さい。」

「若いのに、大変だったね。」
A「よくご存知なんですね。」

「お父さんとお母さんのこと宜しくね。」
A「今できる事はそっとしておくことですよ。」

など、皮肉の鎧を厚く塗り固める作業。
片道の5時間があっという間だった。
最寄り駅に着き家まで小雨が降る中、徒歩5分程。
久々でも無い故郷は小さく寂れきっているように見えた。

家に帰ると母が「おかえり」と一言。
次の一言には「あんた、昼ごはん食べた?」と
いや、食べさせに来たんだけどと思いながら
朝から何も食べて無い事に気づく。
お腹が空いて無いのは自分自身だった。

これじゃいけないとリビングに置いてあったバナナを手に取り、
「とりあえずこれもらうねー」と言うと
「お茶漬け食べーや」と笑いながら自分だけのお茶漬けを用意する母。
母はお茶漬けをすすりながら
意外と冷静に、夕方には姉が東京から帰って来て
兄を下関の警察署に迎えに行くとの事だった。
気丈に振る舞って居るのが何処となく伝わってきた。
父が仏間から私達の居るリビングへ来た。
目に涙を浮かべながら「ごめんな…」と一言。
あんたはそれしか言えねぇのかと思いながら、
「ただいま」と返した。

夕方、姉が帰り、母が諸々を説明。
兄の遺体と一緒に帰宅したのは20:00を回った頃だった。
仏間に兄を寝かせ、葬儀屋さんが来て布団を変え腐敗防止のドライアイスを床に入れ
通夜、葬式の打ち合わせをした。

友引は火葬場が休みらしく通夜まで3日間空くことになった。
少しの間だが家族で落ち着いて過ごせる。
と思ったが…そうはいかず。
連日兄に会いに、と来客が絶えなかった。

通夜の前日の夜、兄の側で好きだった瓦そばをつついていたとき
時間は20:00を過ぎた頃、自称親戚の方々が2名線香を上げに来た。
来客は仏間に座り込み父と話す。
姉は長くなることを察し舌打ちをひとつ、
「遅い時間にわざわざありがとうございます。
夜も遅いので気をつけて帰って下さい。
わざわざ暗い中ありがとうございました。」
と追い立てるように帰した。
私と母は心の中で拍手とガッツポーズ。
姉は「どんな仲でも配慮の無い奴はクソ」と呟き、ビールを煽った。
私達はそっとしておいて欲しかった。

葬儀までの数日間料理の好きな私は色んな料理を作った。
ホットプレートで作る瓦そば。チキンカツ。
とろろご飯。鶏の照り焼き。トマトパスタ。
大根の梅煮。肉味噌ピーマン。フルーツポンチ。
など。
兄が好きだったもの。
兄が好きだった映画や音楽を流しながら。

通夜と葬儀には合わせて500人程お参りに来たそうで、
葬儀屋さんとお坊さんが今までにない参列数だと驚いていた。
用意してた皮肉の鎧もちゃんと役に立った。

怒涛の数日間、やっと落ち着いて彼に電話。
なぜか私よりダメージが大きかったらしく
泣きながら出てくれた。
今どう言う状況で、今後どうするか、どうなるかを彼に話すと。
「君が大丈夫か心配。」と一言。
この数日間で私を心配してくれる人が初めてで返答に困った。
鎧を分厚くしすぎたようだ。

都心に台風が来るとの予報で予定より早めの帰京となった。
最後は母の「いいからあんた達は帰りなさい!」の追い出しスタイル。
「食事じゃ無く摂取だと思ってちゃんと食べて下さい。」と強く念を押し渋々帰路に着く。

疲れが溜まっていたのか、帰りの新幹線の記憶はあまり無い。
東京駅の改札で彼が待っていた。
「おかえり。」と一言。
最寄り駅に着き、月見マックを買い帰宅。
頬張りながらここ数日間の事をブツブツと。
振り返ると今まで涙が出ていない事に気づいた。
ため息をつくと、彼は「疲れたね。」と呟き頭を撫でた。

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