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COSMOS たましいの楽園  大天使ミカエルとの10年間の記録 1992年~2002年 14歳~24歳 ⑬

魂に存在する神

私は高校3年生の頃、「コミュニケーション(対話)の達成」「コスモスの体験」「魂の覚醒」を目標にし、18歳になるまでにはこれらを自分のものにしようと考えていた。

しかし、高校3年生の12月末は、私にとって一番辛い時期になった。

この先の進路のことが不安になったり、1つの大学しか受験しないことに対して焦りを感じたり、まだ何かを求めている自分に嫌気がさしたりして、苦しい毎日を過ごしていた。

私は魂に存在している神を一日中感じ続けたかった。

その想いが募るあまり、私は真剣に「死」を考えていた。

この世界から消えて無くなってしまいたいと思っていた。

この頃の私にとって、死ぬことと魂で生きることは同一のことだった。

私はどうしたら人に気づかれないように、また強烈なショックを家族に与えないように死ぬことができるかを常に考えていた。

できれば自分の死んだ肉体を誰にも見せたくなかった。

私は精神的に不安定な心境をノートにぶつけていた。


夕べ見たあの空を許してください

何かに頼らなくてはならないなんて

コミュニケーションの達成っていったい何だったのだろう

今、その分岐点に立っている

人生なんてすごくつまらないものだね

だけど捨てられない。捨てられない

私が未来の自分の姿を想像できないのは、今の自分が現実的な視点から自分を見ているから

本当に自分の姿を見たければ覚醒しなきゃだめだ

覚醒しようよ


本が読みたい

何の本?

ああ、それさえも分からない

自分が歪んでいくのがよく分かる

これを切ないというのだろうか

これを悲しいというのだろうか

私は生きることに一生懸命になれない

そういう視点から物事を見ることができない

勉強ができない

恋愛ができない

したくてもできない

結局、私は神の子だったと言うのは簡単なことだ

神の子の私はどこへ流されてゆくのだろうか

すべてを知っている私はどこに辿り着くのだろうか


どこに眠っているの?

隠された秘宝

あの山を越えて、あの海の奥

ここまで来て地平線だなんて何だか寂しすぎるね

もう何もかも消えてしまうのならそれでいい

それが覚醒だから。私の覚醒だから

はやくアイスクリームのように溶けてしまいたい


どうしよう。どうしよう

こわい。こわい

誰か助けて。この醜い私

目を閉じていたら見えてしまう最後のキーワード

活字中毒の私

お風呂に入りたい

自殺なんかしないよ

あきらめないで

怖がらないで

夢までこの時に体験して

愛に架けるこの橋の上で



許された罪

私にとってもっとも根本的な問題、それは「この大宇宙がなぜここに存在しているのか」ということだった。

私はその問いに対しての答えを必死に求めた。

自己の魂、光がどのようにして生まれ、どこへ流れていくのか。

大宇宙、神とはいったい何なのか。

神は何の目的で宇宙を動かし続けているのか。

それらの疑問の答えを具体的に言葉で理解したかった。

私は自分自身の神を求めてこの旅に出た。

神の愛というものを必要としていた。

その旅の終わりに、私はひとつの解答に辿り着いた。

それは私の考えのすべてを転換させるほどの出来事だった。

COSMOSもこれ以上書く必要がないと思えるほどだった。

それは私が今まで感じ続けてきた「人間の罪」というものが許された瞬間だった。


宇宙という空間と次元という状態そのものが神である

大宇宙とは、神とは、状態であり、存在である

ただそこに在るもの、それが愛である

すべてが神の中にある

私はもう神を求める必要がないのだ

なぜなら、私自身が小宇宙であり、神の子であったのだから

私はすべてを知っていて、すべてを含む存在だった

愛や神や光の中で、私はただ在ることを許されていた


私はある本により、これらのことを悟った。その時の私が一番求めていた言葉が私の魂に飛び込んできた。

悪や罪は人間が作り出した概念だった。

宇宙には善も悪も罪も苦もない。

もしもそれらが存在していたとしても、すべて神の愛に含まれていた。

人間として生まれてきたことに「罪」はないのだ。

私たちは「愛」そのものであり、すでに「神」という名の状態の中で生きているのだから。


自分が光そのものになってしまうことが、すべてを癒すことになる。

それは私にとって新たな発見だった。

しかし自分が本当に輝いているのかをすぐには実感できなかった。

私は次に「真に神の愛を感じられるような体験」を得たいと願った。

私が今まで感じ続けてきた、人間として生まれてきた以上背負わなければならない罪というものが、神や宇宙を自覚したときに許されたように感じた。

できることなら、その喜びをずっと味わっていたいと思った。



2020年42歳の現在、この文章を振り返ると、キリスト教の原罪のことを思う。

私は家族も自分自身もキリスト教とは関わりはなかったが、なぜか昔から教会に惹かれてた。

特にヨーロッパの古い教会や修道院などを見ると、とても懐かしい気持ちになった。きっと過去世に何か関わりがあるのだと思う。








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