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イギリス留学日記 #2 新規参入者が社会に馴染むまで


人も言語も時間も、真っ白なパレットに向き合ったとき、私は何を描き出せるだろうか。そんな問いを軸に、未来へと時間を消費するのではなく、現在へと関心を向けるための日記をゆったりと書き綴ることにしました。
-更新頻度も言語も気まぐれですが、お付き合いください-


-お風呂のお湯が出ない

6:30起床。
前回の記事を読んだ方はご存知の通り、シーツも布団も無い中コートを着て寝ている状態で、非常に不快な目覚めだ。寒さでもぞもぞ起き上がり、どうにかお風呂で温まろうとシャワーの取手をひねると・・・
なんとお湯が出ない・・・
自分のやり方が間違っているだけではないかと1時間ほど格闘するもお湯が出ず、一気に絶望。早朝から申し訳なさを感じつつ昨日出会った日本人の友人に連絡し、お風呂を貸してもらった。

そこで温かいお湯をもらいようやく正気を取り戻す。
生活基盤が整っていることのありがたみをしみじみと感じる。

-英語の壁

そうこうしているうちに、留学生向けのガイダンスの時間に。
私はアメリカ、スイスからきた女の子たちと4人でチームを組んだ。内容は、グループでアイスブレイクをしようというもの。旅の疲れとお風呂への絶望からあまりテンションが高くない私は、言語関係なく会話することに疲れておりなんとなく参加していた。すると、アメリカからきた2人の女の子の会話のスピードにまるでついていけない、、、言語の壁に衝撃を受ける。
普段であれば率先してグループワークをリードする立場になりやすい私にとって、言葉のせいで黙っているしかできない状態は非常に苦痛だった。

しかし、耳は慣れていくものだ。ガイダンスの後にみなで外でコーヒーを飲みながら話していくうちに、ちょっとずつそこに存在することへの苦痛は無くなっていく。そこにはフランス、スイス、アメリカ、スペインからの留学生たちがおり、互いに言語を教え合う場面が多くあった。たいていの学生が2言語もしくは3言語を話せる上、互いの文化に強い興味を示す姿勢が印象的だった。やはり留学するだけあり「国の違い」に関心が強いのだろう。
日本では、大学で第二外国語を習うもそれは「学習」にとどまり授業が終われば忘れていってしまうのが当たり前のようになってしまっていることを今更少し後悔した。言語を教え合う様子をbgmに、一つのメディアとしての言語を複数扱えることは、背景が異なる人との関係性を取り持つ上で大きな戦略になるのだなと考えた。とはいえ、やはり同じ国籍のもの同士が集うと、どうしてもその国の言語で話してしまうものなのだろう。私はちょうど陽気なスペイン人5人に囲まれる位置に座っており、一人全く意味の分からないスペイン語のシャワーを浴びていた・・・


-余談1 スペインと日本との文化的交流-
スペインと日本と言えばフランシスコザビエルや鎖国前最後まで船が往来していた、などのイメージしかないが、想像以上にスペイン人の中での日本の評価が高かった。私が日本人だと言ったとたん周囲にいたスペインの友人が「なんであんな素晴らしい文化を作れるんだ!」と問いかけてきた。聞けば、複数人が幼少期に日本語の絵本をもらい読んだ経験があるという。さらにはいかつい見た目をした男の子が可愛らしいポケモンのTシャツを着ているなど、スペイン人の間では日本に高い関心が寄せられているようだ。


その後ガイダンスの教室に向かう途中では、ブラジル人の友人に出会った。
ブラジルといえば母が昔留学していたと話していたのを思い出し、話してみた。すると彼女の故郷の都市にはたくさんの日系人がいて日本人の友達もいると話してくれた。


-余談2 ブラジルにおける日系人-
1888年にブラジルで奴隷制度が廃止になったのと同時期、日本では日露戦争の影響で農民の貧困化が課題となっていた。そこで、1908年に800名弱ほどの日本人がブラジルに渡り、ブラジルにおける日本人コミュニティが拡大したわけだ。そして、イギリスで出会ったブラジル国籍の友人が、自らの地域(確かサンパウロだった気がする)の日系人を「日本人」と呼称したのも私としては興味深かった。
まさに入管法を巡っても話題になったことだが、たしかに最初に向こうに移り住んだ日系1世は日本という国で長く育ったことから「日本人」であるというのは分かりやすい気がする。しかし、ブラジルで生まれ育ち、ブラジルに住む日系2世,3世はどのようなアイデンティティになるのだろうか。1990年入管法改正という制度上は「日本人」であるが、彼らの主観としてのアイデンティティはどう認識されるのか。こうしたことを考えると、まさに「〇〇人」というのは人間が認識的に作り出したものにすぎないということを実感する。


-学生自治会

午後は、Student Unionの学生によるSocietyの紹介ガイダンスだ。
この大学には240近い組織があるらしく、スポーツから社会活動、ボランティアまで多岐にわたる。真面目そうなStudent Union幹部のプレゼンを聞きながらふと、新規参入者がその社会に取り込まれる過程で、新入生は新しい社会の中でどのように関係性を作り出していくのか考えを巡らしていた。振り返れば、この大学には数多くのNew to the UKのプログラムが組まれており、システムとして新規参入者が社会に溶け込みやすい工夫が多くなされている気がする。空港のpick upサービス、ガイダンス、ビーズやカップを使ったイベント、新歓、club party、ball partyなどなど、ハードからソフトまでアプローチ法の種類の豊富さが興味深い。

そうしたシステムの中で、新規参入者はどう行動するか。空港での微妙な空気感がそうであったように、最初は皆用意されたシステムに従順に従わざるをえないため受け身の姿勢をとる。そうしながら自身と同じカテゴリー(国、言語、肌の色など目に見えやすいカテゴリーから入ることが多い)の者を探し、該当する者を見つけた途端、閉鎖的な小さな社会をそこに形成する。これが彼らの存在論的安心の核になるのだ。意識をしなければ、人はこの小さな社会に安住するようになり、排外的になっていってしまう。まさに、自分自身も異国の地で知らない人だらけの環境において、少し気を緩めるといつも一緒に過ごすメンバーのもとに駆け寄ってしまう感触があった。その行為自体は安心感を醸成する役割を持つため否定はしないが、当然ながらそこに留まる限り輪は広がらない。人によって、この囲い込んだ社会のバリケードの強度は異なるが、新規者は相互にそれを推測って関係性を取り結んでいくのだろう。

その点で、Student Unionが到着2日目に学生主体のsocietyの話を発表したのはタイミングとして非常に良いと思う。ハードなカテゴリーごとの分類が定着する前に、societyという個人の趣味嗜好に視点を切り替えてさらに輪が広がりやすくなったように感じた。そんなことを考えながら、自らコミュニティを作りたがる自身の気質がとても理解できた。根底には幅広く多様な人々と関係性を取り持つことへの関心があり、そのために、自らでテーマを設定し、しなやかな枠組み(趣味嗜好や信念の一致など)を作ることで、私自身のconfort zoneを作りながら、新たなつながりを広げていけるわけだ。

-スーパーへ

ガイダンスが終わると、なにやら校内でのゲーム企画が開催されるようだったが、まだ部屋の整理が何も終わっていなかったので一度部屋へ。
Unpackingをようやく済ませ、布団も無事Student Officeから回収し、少しずつ身の回りが整ってきた。その後、仲良くなった韓国と日本人の友人と一緒に大学の敷地の外に出て買い物へ。Tescoという地元の人御用達のスーパーでブランケットと食器を購入。全体的に物価がすごく高いのかと思いきや、牛乳1L£1.5ほどで、日本より若干高いくらいの価格帯だ。
(※後日、大学のあるEgham街のフィールドワークも実践する予定であるため、その際細かく記述してみようと思う。)

往復40分の買い物から帰ってくると、大学の広場でピザパーティーだ。
少しずつ2回目3回目ましての友人が増えてきて、互いについて知っている情報が増えてきた。しかし、すでにここで20時すぎ。昨日もろくに寝られていないため、21時ごろには眠気がきて、そのまま最低限のことを済ませ、就寝。(未だお風呂は直らず….泣く泣く友人のシャワーを借りた)

(2024年9月19日 日記より)


その日の日記を書きながら、過去の文章を校閲する作業はなかなか骨が折れますね・・・笑 明日から予習復習が怒涛の授業も始まるため、気長にゆったりと更新をお待ちいただけると幸いです。それではまた次回の投稿で👋



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