ドイツ・ベルリン渡航日記〜人間の弱さに向き合う〜
旅することは感じること。書くことは考えること。
異邦人として地域を歩くとき、私が最初に注目すること、感じ取ることは何であるか。「旅を書く」ことで自分自身を記録する。
ー3カ国周遊の旅の最後の国は、ドイツ・ベルリンー
-ベルリンってどんなところ?
中世の世界観が保存されたベルギーからやってきた私にとって、そこは驚くほどに発展した近代都市だった。大量の車が通ってもなお、余白を残す幅の広いウンテルデンリンデンと呼ばれる大通り。高くそびえるテレビ塔や神々しくライトアップされたブランデンブルク門の裏からは、空に向かって光線を放たれていた。
私にとって、街の光がどこか虚無に感じたのはなぜだろう。何かを覆って、その上に意図して煌びやかさを創り上げたような、そんな気がしてしまった。そして、3日間を過ごしていると、そこに埋もれた生々しさがじわじわと、ゆっくり私の感性に届いてくる。私にとってベルリンは、人間の奥底に抱える弱さが衝突し圧縮されたような場所だった。それは、ニーチェの言うディオニュソス的なものが立ち現れているような感覚だろうか。だからこそ、その街の持つ熱さを私はしばらく消化することができなかった。イギリスに戻ってからも、私の脳は嵐が過ぎ去ったような、そんな感覚に陥っていた。
神聖ローマ帝国の30年戦争によって人口の半分以上を失ったベルリンがプロイセン王国として再興するとき、経済発展の中心を担ったのは貨幣鋳造業を動かしていたユダヤ人だった。それにより築かれた国の権威はさらに拡大し、国際政治の中心地としてドイツ帝国が出来上がり力をつけていく。しかし、第一次世界大戦が全てを変える。敗戦国となったドイツはヴェルサイユ条約の多大な負債により一気に国は貧しくなる。そんなとき、貧困の状況を創り上げた責任がユダヤ人にあると主張し始めたのがNaziであった。ヒトラーは「Jewish」を主語にした禁止条項を次から次へと発行していき、民族絶滅を画策する。ポピュリズムによってドイツ国民の支持を仰ぎ、全体主義が実現されていった。
第二次世界大戦後により全て破壊されたこの街は、東側はソ連、西側はアメリカ、イギリス、フランスによって分割統治され始めた。冷戦が始まると、ソ連は西ベルリンを壁で包囲した。恣意的な分断は、当時そこに住んでいた家族や親族を分断した。それにより東側から逃げようとする人が何人もいた。壁は二重になっており、逃げようとする市民は射殺される。逃げられぬよう東と西をまたぐ電車の駅はいくつも封鎖され、街の至る所にチェックポイント(監視塔)が置かれた。
壮絶な歴史を辿ってきたドイツだが、その痕跡は今もなお街の至る所に残っている。ヒトラーによって作られたアウトバーン(高速道路)やフォルクスワーゲン(自動車)。通りを歩くと至る所で見つける年号と人の名前が書かれた小さな銘板。それは、連れ去られたユダヤ人の記録である。そして、冷戦時の占領国の国の名残が残る建築物。かつての東側は壁に落書きがなされ廃れた家が多いのに対し、西側はアメリカ的な家々が多い。また、西側の空輸作戦のために作られたテンペルホーフ空港や、歩けばそこら中にある記念碑やモニュメント。
外を歩くだけで、様々な分断の歴史の記憶が想起される。そこに共通するのは、己の弱さから顔を背けるように他者を排斥する、人間の弱さだった。それは、ハンナアーレントが「悪の凡庸さ」と呼んだものかもしれない。ごく普通の人間誰もが持つ弱さだ。だからこそ、私にとって人間の原罪が縮減されたこの街を歩くことは、私自身の弱さをも突きつけられるような、嵐のような時間だったのだ。
では、その弱さとは、何であるか?
-2泊3日のスケジュール
-ベルリンの壁崩壊の記念日に
-人間の弱さに向き合う
忘れてはいけない過去がある。しかし、人々の記憶は風化していく。それに抗い後世にもその過ちを継承しようとするのが「表象」が持つ役割だ。ベルリンの街には、ホロコーストの表象が数多くある。道の上に記録された連れ去られたユダヤ人の銘板、1.9ヘクタールの広い面積に、上下にうねった道と高さの異なる長方形の灰色の石碑が2000個以上建てられたホロコースト記念碑。そして、脱構築主義の建築家リベスキンドによって建てられたベルリン・ユダヤ人博物館。その表象のやり方を巡っても、私たちの意味づけられる先にある臨界点とどう向き合うか、議論がなされてきた。
しかし今回は、表象に触れて私の中で動いた感性を純粋に描きとってみたい。それは、表象を通した自己分析であり、私自身の思考散歩である。
ユダヤ人は、拠点を持たない、あるいは持つことのできなかった民族である。どこに行っても、「非A」の存在であり、異邦人である。そんな彼ら彼女らは何にアイデンティティを見出すのか。ホロコースト当時、典型的なユダヤ人像とは「長い黒髭に黒い帽子を被った意地悪そうな目をした男性」 であった。プロパガンダでは、そのような男性がか弱い白人女性を襲うようなイラストが街中に張り出されたそうだ。
しかし、私はミュージアムを見ていて気付かされた。同じJewishでも、ドイツに住む人、ポーランドに住む人、フランスに住む人、ウクライナに住む人など、それぞれが住む世界は全く異なるのだ。それは拠点に境界を持たない人々だからこそ余計に強調されるものかもしれない。人々は複数の属性を持ち合わせており、それが複雑に絡み合って個人のアイデンティティとなっている。それは、Crenshawがintersectionalityと呼んだものだ。
ミュージアムが優れているのは、当時のホロコーストにおいて、アイデンティティの複数性を無視して「Jewish」と片づけられた人々の、他の属性に光を当てている点にある。人によって、その土地へどれだけ同化しているのか、どれだけJewishとしてのアイデンティティを自覚して日常生活に持ち込んでいるのかは様々である。それを、一言で「Jewish」と括ることの暴力性がいかに彼ら彼女らにとって深刻であるかを実感した。こう考えていくと、1つの疑問が私を余計に混乱させる。
アイデンティティとは結局何であるか。
ギデンズは以下のように述べる。
私たちの生きる日常の裏側には混沌が潜んでいる。自分が「世界内存在」であることを感じてはじめて、人々は混沌への恐怖から解放される。それは近代人が逃れることのできないanxietyであり、人間の弱さである。アイヒマンを殺戮者にしたのは、ナチス親衛隊での昇進の動機となった彼自身の学歴コンプレックスや国家弁務官になり認められたいという彼の出世欲だ。それらをアーレントは「陳腐」な悪であると言った。
人が生まれながらにして存在論的安心を求める存在であると前提するならば、当時の人々の過ちとは、己の混沌に対する恐怖のために、他者を破壊したことだ。自らの弱さを封印してしまい、それを見ようとしなかったことこそが、「悪の凡庸さ」である。そして、そのことは今を生きる私たちにも跳ね返ってくる。私はこれまでアイデンティティを主張することは良きものとして生きてきた。しかし、自らの存在論的安心のために、排除している他者がいないだろうか。それを主張することは本当に良いことなのか。
そう考えながら博物館を回っていると、最後に現代を生きるJewishの人々の映像展示が出てきた。そこに投影された人々は、小さなこどもから高齢のひとまで多種多様だ。彼ら彼女らは自分の名前、出身地、好きなものなどを順番に答えていく。たしかに、それはintersectionalityを人々に示す展示としてはうまくできていた。しかし、その人の特性を問うような質問に端的に答え続ける様子もまた、一種のカテゴライズであり客体化された展示ではないだろうか。人と人とは相互方向の関係の中で生きている。どちらかが偏って発話しては、真の主体を相手に見出すことはできない。そんなとき、自分のアイデンティティの一要素を発信していくその表象は、私にはからまわりしているように見えたのだ。
-森鴎外を辿る
最後に、ドイツ帝国の時代に森鴎外が訪れたというベルリンの街をお届けしよう。官僚主義的な日本の制度に縛られてきた豊太郎が見たこの景色は、「自由」と「自我」に満ち溢れていた。
明治の日本人の精神と西洋的な自由の道とで懊悩した豊太郎に、高校生の私は深く共感を覚えた記憶がある。そして、今もなおその感覚は健在だった。
-オタクコラム:ベルリンのバレエ劇場はこんな感じ🩰
今回私が見た劇場は、バレエというよりかはオペラ専用の歌劇場として使われているようだ。表には、カルメンやニュルンベルクのマイスタージンガーの広告が置かれていた。
ドイツはバレエ留学先としても日本人に人気な国の1つ。ヨーロッパの中ではバレエスクールも多い国であるが、やはりワーグナーに代表されるオペラに比べると観客の関心は後進的だという。
最後まで読んでくださりありがとうございます!
ついに、3カ国の旅行記を書き終えました。最初は書くつもりなどこれっぽちもなく、ただ楽しむ旅行と思っていたのですが・・・・
今回の旅行で一緒に回ってくれた2人の友達に心から感謝します💌
イギリスに戻ってきた私は、3カ国の旅をどう振り返ったのか、
次回はそれを投稿できたらいいなと思いつつ、私のモチベーションと体力は持つのでしょうか😂
それでは次回の投稿もお楽しみに!Bis gleich!
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