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『ジゼル』 at Bavarian State Opera-憧憬への恍惚的体験(第一幕)
人は誰でも心の奥に「憧れ」を秘めている。
「憧れ」は現実化されないからこそ、ときめきが生まれる。しかし、人々はあらゆる手段で崇高への到達を図ってきた。その歩みの1つとしてのバレエ『ジゼル』。観客が抱く「憧れ」とそれに伴う「渇望」こそが、高揚的な恍惚体験というロマンティシズム的な芸術価値を高める。
バイエルン国立歌劇場という場は、それ自体として憧憬の具現化であった。深紅の絨毯と鏡ばりのエントランスでは、壮麗なドレスを身にまとった女性とそのエスコートをするタキシード姿の男性陣らが開演前にシャンパンを片手にしている。2階3階へ登るとそこは大きなシャンデリアを備えた宮殿のような応接室が広がっている。そして客席は金色の装飾が施されたヨーロッパならではの半円形劇場になっている。観客の理想郷への陶酔の準備は整えられた。
-第一幕
牧歌的な農村の風景を連想させるメロディから幕が開く。通常、重心を高く保ち上半身を動かさずに回転やバランスという技術力を重視する古典的バレエとは異なり、軽快でリズム感のある脚さばきで登場する農民たち。こうした役柄はダンサーの表現の幅に自由が効くため、個々のダンサーの表現力が際立ち舞台上のどこを見ても観客を飽きさせることがない。それでいて、踊りの中の同期性やフォーメーション、動きの統一感などはバレエの美的規則に従う。そうした個性と規律のせめぎ合いがバレエ作品としての1幕の質を決める。
その意味では、バイエルン国立バレエ団のコールドバレエは個性の強さに重きが置かれているように思えた。言葉を使わないダンサーが踊りに個性を出すには、マイム演技や表情といった表現的な側面と身体的な特徴や動きの癖といった技術的な側面がある。特にバイエルン国立バレエ団では、舞台上のどのダンサーも基礎的な技術力が完璧に近いが故に、余計に動作後の余韻の処理の仕方の部分に技術的な個性が立ち現れていた。
そこに、貴族という身分を隠したアルブレヒトが登場し、主役の登場に観客は前のめりになる。彼は下手に設置されたジゼルの住む家を意識しながら、踊りを披露する。メロディーに合わせて彼が家の扉を2回ノックする。さて、いよいよジゼルの登場だ。1幕におけるジゼルのメロディーラインは聞けば観客も気分が上がるような軽快で明るい調子が印象的である。
舞台上に出てきたジゼルに、観客は息を呑む。小柄で華奢で軽やか。可愛らしいという形容詞がぴったりな主役ダンサーの姿は、まさに女性であれば「憧れ」の容姿外見である。ジゼルは舞台をバロネ(軽快にリズムを刻んで跳ねる動き)で移動しながらアルブレヒトの存在に気づく。その瞬間、彼女が醸し出す初々しさ。その恥じらいがありながらも純粋な恋心を持つというキャラクター性は、さらに女性の憧憬を刺激する。
この作品における1幕のジゼルは、視覚的にも性格的にも、「かよわい純粋無垢な少女」という、今の時代ではステレオタイプと言われそうなほど典型的な女性像である。それが人々の理想をかきたてるにはもってこいである。さらに、花びらの枚数で愛する彼との関係を未来予測しようとしたり、彼が触れようとすると恥じらいながら目を逸らしたりと彼女がアルブレヒトと戯れる姿は、誰もが憧れる典型的な若々しい恋愛像である。この作品において、こうしたジゼル像こそが、広く観客の憧憬のまなざしを集め、私たちを作品自体に陶酔させる。それが後々の物語の進行の要ともなる。
それでは、「かよわい純粋無垢な少女」という理想郷をダンサーはどう具現化させるのか。これがジゼルを踊るダンサーの腕の見せ所である。以下に異なるバレエ団に所属する11人の世界的トップバレエダンサーが演じる、1幕のジゼルのバリエーションを示そう。
例えばマリアネラヌニュス(13:20)が演じるジゼルはお茶目さを際立たせた表情をすることで少女らしさが強調されるのに対し、永久メイ(9:20)は彼女の細身の身体的特性を活用して大人しそうな、けれども踊りが好きでその時間を楽しむか弱い少女像が注目される。バイエルン国立劇場でジゼルを務めたKsenia Shevtsovaは、四肢を伸びやかに柔軟に使うまさにVaganova メソッド(ロシア型)特有の踊り方が特徴的であった。今回の舞台で一貫して見せる彼女の伏目をする目線の使い方は、1幕の場面ではどこか内気だが自身の感情に純粋に向き合う素朴さとして現れたように感じた。さらに、彼女の柔軟性故にどこまでも伸びていくように見える踊り方は、詩的憧憬という言葉を連想させた。それはバイエルン国立劇場の持つ煌びやかさへの「憧れ」とはまた異なり、農村の少女が作り出すピュアさへの「憧れ」だろうか。豪華絢爛な装飾によって作られる劇場の壮麗さの中で、ダンサーの一つ一つ動きが積み重なって創り出される純白さ。それらがアウフヘーベンして初めて完璧な崇高が作り出され、観客はそれに陶酔していく。
こうした『ジゼル』のロマンティシズム性を楽しむ姿勢を取る時、アルブレヒトのキャラクターはどうあるべきか。実は、これまで私はバレエ作品の文学的価値に対してあまり関心を示してこなかった故に、こうした問いを考えることなどなかった。踊る側に立ってきた私は、師から教えられるキャラクター像を継承する形でそれに準えた表現を構成してきたからだ。そのため、アルブレヒトもまたジゼルを愛するも、貴族という身分階級に葛藤した人間としてこれまで信じて疑うことがなかった。しかしながら、今回初めてゴーティエの脚本と上演されている作品との解釈の差について疑問の意見を聞き、バレエ作品のストーリー性について考える機会を得た。たしかに、バイエルン国立バレエ団が採用する振り付け家ピーターライトはアルブレヒトを以下のように位置付ける。
ピーターライト卿:
「彼(アルブレヒト)は悪党であり、冒険家であることは間違いない若い貴族であり、それ以上のものではありません」
アルブレヒトは、純粋なジゼルを惑わす「悪党」なのか。そうだとすれば、私が両思いのカップルの恋の戯れに憧憬の念を抱いた一幕の登場のシーンの見え方が大きく変わってしまう。これは、理想郷で固められた世界を描き出すことをこの作品の芸術的価値とみるロマンティシズム的な見方をする私にとっては、単なる解釈違いの問題としてでは片付けられない。しかし、ゴーティエの原作では、アルブレヒトにとってジゼルはただの遊びでしかなく、最後までジゼルは片想いで終わったことを仄めかす表現がなされている。そして実際、ピーターライトのようにそう解釈をした振り付け家もいる。ただし、1841年を初演とする『ジゼル』のような古典的作品が今まで引き継がれてきたのは、プティパを始めとした20世紀以降の振付家たちが広く人々に受け入れられるように原作を再解釈して上演してきたからにほかならない。
では、この問題をどう昇華するべきか。パフォーマンスという生きた芸術の分野において、原作への忠実性に関する議論は多く交わされてきた。これに対して、もちろん文学的な論旨も可能なのだろうが、今回私が行いたいのは、いち観客として、そしてバレエの踊り手として、『ジゼル』に何を観たいかと言う主張である。今日の複数のジゼル公演の事例を見ていると、作品解釈は上演する場所や時期、そしてその時の政治的社会的背景に伴い多様なストーリーラインや振り付けが作り替えられているようだ。例えば、2023年に改訂されたウクライナ国立バレエ団の『ジゼル』では、今日のウクライナ戦禍を踏まえ、「人間存在を超越して永続する愛」をテーマにし、ジゼルとアルブレヒトは両思いとして描かれ2幕の最後にはキスをして終わるのだという。
「戦禍の中にあり、ウクライナ文化省にはバレエの新制作にかける予算はありませんでした。そんな時、日本から義援金が届き、『ジゼル』の新制作が実現したのです」
https://balletchannel.jp/42427
バレエ作品を原作への忠実性やストーリー性から見る人は、こうした斬新な拡張解釈を批判的に捉えるかもしれない。一方で、作品を演出家の再解釈の産物として見る人は、現代社会の要請に応えたもしくは批判した芸術を評価するだろう。私は、この論で一貫して『ジゼル』という作品を、憧憬の具現化による恍惚的体験として捉えてきた。こうした前提に立つ時、私はアルブレヒトを「純粋なジゼルへの愛情と自らの身分階級との避けられない葛藤を抱える男性」として捉えたい。これは原作を無視した私の願望であるかもしれない。しかしながら、そうすることで私は、第一幕のジゼルを「女性」としても、そして「恋愛体験」としても、理想郷の具現化として捉えることができるのだ。それは、後に続く私の第二幕の見方にも大きく影響を与える。
第二幕について執筆をしたいところだが、残念ながら筆者の飛行機の時間が来てしまった。ここで「幕間」を挟むことにして、第二幕はまた次稿とさせていただきたい。