ベルギー・ブリュッセル渡航日記〜中世の世界に想いを馳せる〜
旅することは感じること。書くことは考えること。
異邦人として地域を歩くとき、私が最初に注目すること、感じ取ることは何であるか。「旅を書く」ことで自分自身を記録する。
ー3カ国周遊の旅の2カ国目は、ベルギー・ブリュッセルー
-ブリュッセルってどんなところ?
アムステルダムからブリュッセルまではバスで約2時間ほど。平日だったためか、バスも空いており大変快適に移動することができた。ブリュッセルに到着して、一番初めに感じたのは聞こえてくる言語の違和感だった。英語が飛び交う生活に慣れてきた私にとって、ボンジュールと話しかけられ「全く通じない言語」のシャワーを浴びることは留学を開始してから初めての経験だった。それは、小学生の頃に見知らぬ外国人の先生を目の前に萎縮してしまった時と同じような感覚かもしれない。単語が一つも分からないことがこんなにも不安を煽り、異邦人であることを自覚させられるのかと驚いた。
ドイツ、フランス、オランダなどの大国に挟まれるベルギーは、歴史的にも交易や軍事の中心地として様々な権力者がその土地を手に入れようと争いがなされてきた。しかし、ナポレオン戦争を経てオランダからの独立を果たして以来、「一つの国」として今まで存続してきた。大きな国ではないにもかかわらず、EUの首都や貿易の中心地のように、大陸全体の繋ぎ役としてその存在を示してきたような国だ。
しかし、歴史的に様々な国の支配下におかれてきた歴史は、今もなおベルギー国内の言語や南北での対立に現れている。オランダ語圏のフランデレン地域(北)とフランス語圏のワロニー地域(南)で分かれており、私の訪れたブリュッセルは北側のオランダ語圏に位置する。しかし、街を歩いていると聞こえてくるのは圧倒的にフランス語。政治機関が置かれる首都のブリュッセルでは、フランス語話者の方が多いようだ。イギリスでも日本でも、都市部で生活している私にとって、これまで同じ国の中で全く異なる言語が存立している様子を目にしたことがなかった。
ヨーロッパにおける歴史的な支配構造が個人の言語的ヘクシスに顕現している様子をみて、偶然にもレヴィ=ストロース(ベルギー出身)が頭をよぎる。(※街を歩きながらなんとなく思い出した彼がブリュッセル出身であることに、このnoteを書きながら気づいたのは面白い発見だ)言語という最も分かりやすい水準で意思疎通のできない相手とこの小さな街の中で空間を共にすると、相手と私の間には明らかな境界線を感じてしまう。それは、私がこの国への留学生として学生という枠組みを共有していれば感覚は別だったかもしれない。しかし、旅行者としてこの地に足を踏み入れた私にとって、道を通りすがる誰かに対して私は最も分かりやすい次元において「異邦人」なのだ。それは、そこを歩く誰かと私の持ち合わせる構造が異なるためであり、それぞれが自分の持つ構造に沿って行為しているからである。旅することは、全く知らぬ構造に沿って生きる人々の様子を観察することだと思うと、余計にこの旅が楽しくなった。
-2泊3日のスケジュール
-前近代的世界
①商人の住む世界
-グラン=プラス(ブリュッセル)とマルクト広場(ブルージュ)
世界で最も美しい広場と呼称されたグラン=プラス。どの建物よりも一段と高い金色の壁を備えたゴシック様式の市庁舎と、その向かいにある荘厳とした王の家は、権力を象徴するようにそびえ立つ。そしてそれを囲むように左右に立ち並ぶギルドハウス。中世ヨーロッパでは有力商人たちが都市の支配権を持ち同業者組合を作っていった。グラン=プラスにも、包丁や樽、高級家具、パン屋など職業別のギルドハウスとして使われた建物が保存されている。
同じく交易で盛んになったブルージュでも、マルクト広場と呼ばれる市庁舎とギルドハウスから成る市場がある。どちらも広場の構造は同じだ。金色の荘厳な塔の様子が抗えぬ階級社会を象徴し、その周辺で有力商人たちが店を開く様子が簡単に想像できた。
こうした場に立つと、社会的階級によって街の中でも生活圏が明確に区切られていたことを実感する。観光客として訪れる私たちが美しいと思う派手な装飾を持つ高い建物の前では、商人は交易で手に入れた大きな絨毯や家具を売っていた。中世の時代は上級貴族に代わって商人が政治的力を持つようになっていく。そうした中で貴族にとっては、カトリック社会において不純とされる商売を行う商人は卑しい存在だったかもしれない。しかし、間違いなく商人の力によって形成されたのが中世のヨーロッパ都市だ。それはウェーバーが「市民の共同体」と呼称したものであり、共通の身分的性格を持った都市市民が作り上げた世界である。
②王族の住む世界
-チョコレートとギャルリーサンチュベール
ベルギーといえばチョコレート。しかし、中世の世界においてチョコレートはまさに貴族の嗜好品だった。ブルージュで訪れたチョコレート工場博物館では、当時の貴族がいかにチョコレートを好んだかが解説されている。スペインの貴族社会の中では、チョコレートは蜂蜜と合わせて甘い食べ物として一躍人気を誇った。そしてスペインの王女がフランスに嫁ぐとフランス貴族の中でも噂が広まり、ベルギーにも到来したのだという。特に、当時の貴族たちはホットチョコレートを好んだという。王妃にはチョコレートドリンク専門職人がつき、馬車の中でも飲めるように中の物が溢れないティーカップや、髭をつけた男爵も楽しめるような髭用ティーカップが開発された。
そうして広まっていったチョコレートは、今やベルギーの代名詞になった。ヨーロッパ最古のアーケード街と言われるギャルリーサンチュベールでは、アーケードの中には「王のギャルリー」「王子のギャルリー」「女王のギャルリー」などの名前がつき、王室御用達のショコラトリーが点在する。こうした文化は、中世の商人は見ることのなかった世界。今もなお立憲君主制を保つベルギーでは、こうした食や観光名所から「王族」の存在を読み取ることができた。
③教会と修道女の世界
-サンミッシェル大聖堂とべギン会修道院
中世の世界において、もう一つの権力中枢がカトリック教会である。ローマカトリック教会の副大聖堂にあたるサンミッシェル大聖堂は、ブリュッセル中央駅の近くに煌びやかにそびえ立っていた。夜には下からライトアップされ黄金色に輝くその姿は、揺るぎない権威の象徴に思えた。
そうした宗教的政治権力が掲げられる裏で、女性の自由を目指したのがブルージュにあるべギン会修道院だ。それは封建社会の中における女性の自立を支援する場所として建てられた共同体であった。当時の社会において、女性の社会的役割とは、結婚して家庭内の再生産に従事することか修道女になることだった。そこで、べギン会では修道女としてだけでなく俗世とも関わりながら女性で共同生活を送るという新たなコミューンの実践を行った。
修道女たちの1日はミサに始まり、日中は編み物や街に出て家事労働や家庭教師などを行う。そして、夜は再び修道院での共同生活に戻るといった生活を送った。当時の女性にとって、修道女になることは自分の意志で生活することのできた唯一の生き方だったのかもしれない。べギン会修道院を実際に訪れてみると、ブリュッセルにあるサンミッシェル大聖堂とは反対に、質素な教会と統一された質素な修道院が肩を並べていた。
ベルギーの街を歩くと、中世の世界を保ったその空間が引き出すそこで生きる人々の生活様式は、場所によってまるで違った。それは前近代の社会における封建的身分制をもろに表していた。人々は区分けされた生活圏の中でそれぞれが小さなコミューンを作り社会を築いていたのだろうかと想像を張り巡らせることのできる空間だった。
-ストライキ=お祭り!?
私がここを訪れた日は、ベルギーで最大のストライキが行われていた。世界各国における労働組合は、アングロサクソン諸国/大陸ヨーロッパ/日本で比較しても構造が大きく異なるといわれている。まず、アングロサクソン諸国と大陸ヨーロッパでは職業別で労働組合が組織されるのに対して、日本では企業別労働組合が組織される。さらには大陸ヨーロッパでは組合の持つ公共性が高く労働協約の適用率も高いが、アメリカなどでは団体交渉は基本的に企業別で行われそこで完結することが多い。こうした体制の違いはエスピン=アンデルセンが3つの福祉レジームを用いて説明している。
たしかに11月頭はイギリス国内でも、ストライキが多発する。私のスマホには、よくBBCから鉄道会社のストライキ情報が流されてきた。しかし、私は鉄道がキャンセルされてもストライキそのものはまだイギリスで目にしたことがなかった。そこで、今回はじめてベルギーでストライキの現場に遭遇したのだ。
私のはじめの感想は、「デモとは違うのか!」というものだった。ストライキといえば賃上げなどを求めてデモ活動をするものとばかり思い込んでいた。しかし、私はこの日、街中の至るところでお祭り騒ぎするストライキ集団の人々を見た。まず、ベルギーにおいて労働組合は「自由主義派」「社会主義派」「社会カトリック主義派」の大きく3つに分類される。そして、それぞれに青、緑、赤といったイメージカラーを持つ。人々はそれぞれの属する団体のカラーを全身に身にまとい旗を持ち、街に繰り出す。たしかに、ブリュッセル中央駅の前では太鼓のリズムに合わせて行進が行われていた。しかし、街のカフェやレストラン、観光地、電車の中などどこにいっても全身統一された色の服を着た人々が楽しく騒いでいる。
日本では、こうした光景はまず見ることがない。そのため、ストライキを起こすことそれ自体が私にとっては新鮮だった。かつて、マルクス=エンゲルスの共著である『共産党宣言』にて以下のように述べた。
たしかに、私が見たベルギーでストライキをする人々は違いに連帯していた。彼ら彼女らの姿は、生き生きしていた。デモという形を取るだけでなくお祭り騒ぎをするのは、それが人々にとっての労働からの解放の瞬間だったからかもしれない。
-Lake of Love と白鳥たち💍🦢
最後に、ブルージュ地方に伝わる素敵な愛のお話をお届けしよう。ここは婚約指輪にダイヤモンドが使われた発祥の土地と言われている。その指輪を受けとったのは、ブルゴーニュ公国最後の王妃であるマリー姫。そのストーリーを巡ってこの土地には愛の伝説が残されている。
後の神聖ローマ皇帝であるハプスブルク家のマクシミリアン1世は、マリー姫を一目みて求愛するようになる。しかし、最初はマリー姫は彼に目もくれない。そんなとき、彼女は父親がフランス王との戦いで戦死した知らせを受ける。そして、彼女も幽閉されてしまう。そこで、マリーを守り救い出したのがマクシミリアンだった。2人は恋に落ち、結婚する。そこで渡されたのが世界で初めてのダイヤモンドの婚約指輪だ💍
さらに、マクシミリアンは初めてブルージュ地方に白鳥を持ち込んだ人物といわれている。そしてその白鳥たちは、ミンネワーテル(Lake of Love)と呼ばれる湖畔で優雅に泳いでいる。その様子は、バレエ作品「白鳥の湖」を想起させる素敵な光景だった🦢
-オタクコラム:ベルギーのバレエ劇場はこんな感じ🩰
実は、ベルギーの独立はこのモネ劇場で上演されたオペラが大元になっていると言われている。1930年夏、このモネ劇場にてフランス人の劇作家が作った『ポルティチの物言わぬ娘』というオペラが上演された。これはフランス革命思想を反映した作品で、最後のアリアでは「外国からの独立」が歌われた。それに感化された観客は、愛国心に燃え上がり、オランダへの独立戦争を始めた。
劇場から独立を果たしたベルギーは、その後愛国心教育として各地に劇場を立てるようになった。しかし当時、この国におけるオペラは全てフランス語で上演されており、独立してからも100年は、フランデル地域の言語であるオランダ語で上演することは二流作品だと揶揄されていたという。このように、劇場と国の存続とが一体化している国だからこそ、街中にある劇場の豪華絢爛さが保たれているのだろうと感じた。
今回も最後まで読んでいただきありがとうございました!
ベルギーはどこに行ってもまず最初に「ヨーロッパっぽい!」という印象を受けます。それは、この国において最も盛んに変化した時期は中世であり、近代以降は周辺国の繋ぎ目として中立のスタンスを取り続けていたからかもしれません。その分、最も中世の頃の社会空間が保存されやすく、今でも訪れる私たちを中世の世界に連れていってくれるような気がします。
なによりも私はチョコレートもワッフルも堪能できて大満足です😂🍫
さて、3カ国目はいよいよドイツです!
次回もお楽しみに! A bientot !Welterusten!