GRRL2

1-2 open the closet door

謎の声が途絶えてから数時間が経過しても、呆然自失の状態が続いていた。あの声を何か真正なものと認めたことで、逆に現実感覚が揺らいでいた。あの声を真正と見なすことは、つまりそれが精神病の症状、あるいは狂いの現象ではなく、リアルにどこからともなく、頭のなかで聞こえるという、現実的な大事件であり、およそありそうにもない出来事が起こったということになるからだ。長らく寛解していた病気が突然に再発したとしても、それは自分にとって悲惨であり、或る種の悲しみの感情を惹き起こしはするのだろうが、正直、想定の範囲内の出来事であり、何時間も呆けていることもなかっただろう。
思考も滞ったまま、夜が明けようとしていた。黎明の光がカーテンの隙間から垣間見える。既に〈アセファル〉を目指すという決断だけは下していた。だが、道筋を思案する精神力も体力も残っていなかった。今しなければならない最善は寝ることだ。そう思うと同時に、カウチに倒れこみ、すぐに意識を失った。

目を覚ますと、夢を見た記憶がないためか、妙にすっきりした目覚めだったのだが、外は暗くなり始めていた。壁の電波時計に目をやった。夕方の5時半だった。すぐにでも〈アセファル〉の探究に取り掛からなければならないと直感していた。ダメ元で検索エンジンに〈アセファル〉と入力してみた。予想通りバタイユ絡みの結果しか得られなかったが、「アセファル資料集」というpdfがあって、何かの役に立つかもしれないと思ってダウンロードしておいた。
場所としての〈アセファル〉の手掛かりとしては、今は音信不通の或る〈男〉の存在しかないようだ。連絡先すら知らず、5年も会っていないあの〈男〉にぼくは再会できるのだろうか。ところで、これはあの〈男〉と再会を果たす方法に関わるのだが、ここまで〈秘密の趣味〉と呼んできたものは、精確に言うと、〈趣味〉というよりはもっと生き方の本質、すなわち実存に関わる要素であり、単に〈秘密〉と呼ぶべきかもしれない。ただ、一部のトランスセクシュアルの人が、人生全体をとおして性別をトランスして(超えて)いるのに対して、ぼくはいかにも中途半端でいわばパートタイマーだったので、あえて〈秘密の趣味〉と書いてきた。いずれにしても、〈アセファル〉の探索は、〈秘密の趣味〉の延長線上にあった〈秘密の稼ぎ〉との関係抜きには語ることが出来ない。〈秘密の稼ぎ〉は5年前に辞めたのだが、〈秘密の稼ぎ〉を得ていた場所こそが、あの〈男〉と出合い、不思議な友情を取り結んでいた場所なのである。
その場所。〈アントワネット〉という名前のその〈店舗〉は、記憶が正しければ19時に開店する。特殊な〈店舗〉であるため、訪れるにあたってそれなりの準備が必要となるのだが、急げば開店の時間に間に合うはずだ。いざとなれば、〈商売道具〉を現場調達するという手もある。

それにしても、ここまでぼくが自分のことを「ぼく」という一人称で語ってきたことはなんという誤謬だろう。わたしは「わたし」のことをわたしとして語ることにしよう。アイデンティティは攪乱しなければならないが、攪乱すべきアイデンティティが、そもそも初めからないのではお話にならない。これは「わたし」を巡る記憶の諸セリー(系列)の物語でもあるのだ。

N市の中心部に向かうために地下鉄の電車に揺られていた。時刻は18時半。部屋のユニットバスで済ませるしかない特別な準備はなんとかこなしたところで、タイムアップ。わたしは〈普段着〉で部屋を飛び出し、途中、コンビニに駆け込み、安価で手に入る必需品を買いそろえ、地下鉄の駅に小走りで辿り着いて、ちょうどのタイミングの電車に飛び乗ったのだ。目的のT町駅に着いたのが、18時50分。また走ろうかとも思ったが、目的地もだいたい徒歩10分圏内だったので、普通に歩いて〈アントワネット〉に向かい、ちょうど19時に入口下の階段踊り場に立つことができた。
開店時間までに辿り着きたい理由があった。実は〈アセファル〉の手掛かりとなるあの〈男〉、ここまで来たら勿体ぶっても仕方ないので、通り名を記すと「夢萌(ムミョウ)」さんと直接〈アントワネット〉で会えることを、わたしはあまり期待していなかった。むしろ、その界隈では情報通として知られるママ(店長)なら、夢萌さんの消息を何か知っているのではないかと踏んでいたのだ。そして、今日は花の金曜日の夜で、最も〈アントワネット〉が繁盛する日だったので、混み合う前に、ママから話を聴きたいと思ったわけだ。

〈アントワネット〉という不思議な〈店舗〉の特殊な構造についても、ここで書いておこう。〈アントワネット〉には2つの入口があり、表向きは2つの別個の〈店〉から成り立っている。一方にセクシュアルマイノリティに特化した個室ビデオがあり、他方に女装子のための女性用品店がある。しかしそれは表の顔に過ぎず、実は〈店舗〉内部で2つの空間は繋がっており、〈アントワネット〉という〈店舗〉の真の姿とは、純男(普通の男)と女装子の〈交流〉スペースなのであった。2つ空間の蝶番の役割を果たしているのが、女装子のための貸しロッカーが備え付けられているロッカールームである。そのロッカールームが個室ビデオと女装用品店の双方に接続しているところが肝である。個室がビデオ鑑賞の目的に使われることはまずない。純男たちは、化粧と着替えで変身した女装子たちを、個室に接したラウンジのように広々とした廊下で出迎え、〈交渉〉に入る。

少しの緊張と高揚感の入り混じった感情を抱きながら、軽く身体を強張らせてわたしは〈アントワネット〉に通じる階段をゆっくり登った。入口の軋みのあるドアを開いて、中に入ると入店を知らせるチャイムが鳴る。
「いらっしゃいませ」
懐かしい。ママのハスキーな声がした。店内にはまだ他の客はいない。わたしの方に目線を向けたママは、すぐにわたしだと気づいてくれたらしく、
「あら、何年ぶりかしら」
「ご無沙汰しています」
「あなた、変わらないのね。ううん、色気が増してるじゃない。すっぴんでしょ?」
「いえいえ、変わりましたよ。あの頃の衣装が一つも入らなかったの」
「全然、そうは見えないけど」
「そう見えるなら嬉しいですけど」
「今日はまたどうして顔を見せる気になったの?お金に困ってるわけでもないでしょ?」
「それが、実は、ママに教えてほしいことがあって」
ママの顔に少し訝しむような緊張が走った。それは声には表れず、
「えー、何かしらね。私が教えられることなんてあるのかしらね」と惚けてみせる。
「夢萌さんって、覚えてますか?」
「そりゃ覚えてるわよ。あなたとむーちゃんはウチの二大看板娘だったんだから。あなたたちいつも一緒にいたわよね」
「いま、どうしてるかわかりますか?まだ、ここには来ますか?」
「ここにも、最近まで来てたんだけど、今は別のとこで活動してるみたいよ」
「連絡先は分かりますか?」
「それは分からないけど、働いてる店の場所なら知ってる」
「教えていただけませんか?」
「いいわよ。でも、ただ教えるだけじゃつまんないから、条件を出すわ」
「なんでもします」
「なんでもって、大きく出たわね。いいの?それじゃ今夜3本こなしたら教えてあげるわ。でも、あの事件以来、外出は禁止になったから中でね」

「あの事件」とは2030年6月に起きた〈同時多発大量殺人事件〉のことだ。いずれ詳しく語ることにするが、その事件のあと、女装子にとって公共の空間に出ることは、とても危険な行為となった。それはパスできる(女性にしか見えない)女装子にしても事情は同じだった。その事件はわたしが〈アントワネット〉で稼ぐことを辞めた直後に起きたのだが、わたしが〈交流〉によって稼いでいた時代は、今思えば随分朗らかな時代だった。〈アントワネット〉で出合った純男たちと外出して、デートと称して、カラオケやバー、もちろんホテルでも〈交流〉することも可能だった。今では考えられないことだ。

今から3本こなすとなると、今夜中に〈アセファル〉に辿り着くどころか、夢萌さんに再会できるかどうかも時間的に妖しくなってきた、と思ったので、多少の焦りを感じながら、早速準備にかかった。ママに8000円支払いロッカーを事前に確保してからお買い物。コンビニで下着(ショーツとキャミソール)は買ってあったが、なんとなく、わたしの性を買ってくれる純男たちに後ろめたい気持ちも芽生えたので、やや高級ブランドのブラとショーツのセット(ライム)を買い物かごに入れてから、普通にいいなと思った透け感のあるパフスリーブのブラウス(ラベンダー)とシフォンプリーツの長目のスカート(イエロー)を買うことにして、パンスト(黒)とコンビニでは買えない化粧品数点もかごに放り込んだ。今日は稼ぐことが目的ではないが、だからこそというべきか、わたしは純男たちにとって魅力的な〈商品〉へと自分を仕立て上げなければならない。〈交流〉は或る種、非対称的なものであり、ここでは、わたしたちにとって彼らが1本、2本と数えられる対象であるなら、彼らにとって私たちは〈商品〉であり、お互いに〈モノ〉と交流しているようなものだが、それぞれのファンタジーにとってそれは好都合なことだ。
購入したアイテムたちを持って、わたしはロッカールームに移動した。手早く着替えを済ませると、3つの鏡台のなかの1つの前に坐り、化粧に取り掛かった。女装を始めたころは、ストッキングを穿いたり、化粧(特にアイメイク)をしたりすることに不慣れで、いつも手間取ったものだが、今では自動人形のように身体が勝手に動くようになっていた。顔に仮装を施す自動的な作業に身を任せながら、自由になったわたしの思考は、わたしの過去、わたしと夢萌さんが共に過ごした日々へと深く遡行を開始した。

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