私信:自由
応答ありがとうございます。
直接的な返事になるか分かりませんが、とにかくfreedomにしろlibertyにしろ「自由」について考えるときに重要なのは、どういうときに自分は「自由」を実感するのかを思い起こしてみることだと思っています。閉鎖病棟での拘束においては、身体が「自由」を奪われると同時に、精神の「自由」も奪われていると思うのです。「自由」は二重に奪われている。そいう意味では、身体を拘束されても精神は「自由」だという立場はとりません。アーレントは移動の「自由」(外に出られること)こそ「自由」の根本だと書いているそうです。つまり身体の拘束を解かれることも積極的な意味を持ちます。ただそれだけでは「自由」は完成しない。その「自由」が積極的なのか、能動的なのか、よく分からないけれど、行為そのものなかに「自由」があると考えてみることはできるかもしれない。
「自由意志」批判はわりと単純な話で、行為の原因は無限に遡ることができるが、その原因の系列をたどる作業は、途中で私たちの認知限界を超えるので、能動的な行為はあるが、それは、なぜ為されるか分からないという意味で、「自由意志」の表現ではないということです。