「合気道は、爺しか出来ん」
筆者は、訳あって、10年以上稽古した合気道を退会して、今は金剛禅少林寺拳法に身を置いています。
武術と言うものは、すべからく、開祖の頃やっていた技法は、代を経るにつれ、バイアスが掛かり、現代には伝わらなくなるのでしょう。実際に、私が学んだ合気道でも様々な技が失われていました。古本屋で買った昭和初期の古い教本を掘り返すと、教えてもらっていない技が続々出てきます。開祖植芝先生の白黒の動画がYOUTUBEに出ていたりしますが、スマホの小さい画面で見ていても、明らかに技が違います。
例えば「三教」。今は、最後の極めは、胸に腕を押し当てて、抑えますが、開祖はうつ伏せにした受けの人の上腕を脛で踏んでいました。エゲツない。これは痛いし動けない。でもこのやり方は現代の道場では、教えませんし、教本にもありません。
危険で会員が怪我をする恐れがあるから。暴力的で、演武で見栄えが悪いから。理由は、様々あるでしょう。
しかし、技は時を経るにつれ、どんどん時代のニーズに合わせて、取捨選択され、変容していきます。危険だから教えないのは仕方ないですが、そのままだと、知っている世代が居なくなると、その技法は、次世代に伝わらなくなります。一般的な稽古や、演武ではしなくても、せめて、両方の技法を教えて、次世代へ伝えるべきだと、私は考えます。まぁ、そんな事は私みたいな研究家だけがやれば良い事かも知れませんが。
ふと、こんな言葉を思い出しました。
「合気道は、爺しか出来ん」
合気道の開祖植芝先生のお言葉です。この言葉は非常に重いです。
開祖は、当時の武人なので、敢えて、弟子に技を事細かく教えなかったのではないか? その技を道場で見たり、受けたらしながらも、弟子たちは、その域に辿りつけなかったのではないか。だからあの様なお言葉が出たのではないか。そんな考察を聞いた事があります。
その理屈で行くと、植芝先生→塩田先生の段階で、すでに「爺しか出来ん」=(植芝先生の定義では)「塩田先生も含めて弟子たちは合気道が出来ない」と言う訳ですから、そのひ孫弟子の私にいか程の技も出来る訳がありません。
先日、少林寺拳法で、逆小手と言う技を習いました。合気道で言う小手返しに似た系統の技です。ところが、これが全く異なります。(私が習った範囲では) 小手返しは、技に入る前の段階で受けのバランスを崩す「崩し」と言う動作がないと掛けられません。相手がガッチリ腕に力を入れて固定した所からだと、びくとも動かせなくなります。ところが、先生の逆小手はどんなに意地悪に踏ん張っても掛かるのです。「相手の小手を掴み、小指と薬指の間に親指を掛けて、投げる」そこは似ていますが、そもそもの技が違います。合気道は、単純な縦横の動きで投げますが、少林寺の逆小手は、より立体的、かつ複雑な身体操法を駆使して投げます。少林寺も、合気道も、大元は古流柔術に様々なエッセンスを足し引きして作られた技法(だと私は解釈しています) なので、もしかしたら、植芝先生も同様の技法を使われていたのかも知れないのですが、それが伝わらず、今の技になったのかも知れません。
武芸三十六般なんて言いますが、一つの武術だけやっていては、核心に近づけないのではないかと思います。