イヤな相手を嫌う前に少し立ち止まって考えてみる
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【軟水のたそがれ】
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毎週日曜日の夜に更新しています!
この【軟水のたそがれ】は、
僕がTwitterで毎日更新している「#軟水のつぶやき」を、深掘りするエッセイ。
新たな1週間が始まる前に、何か大切なことに気がつくキッカケになれば嬉しいなと思っています(*^^*)
・・・本日取り上げるツイートは、⇓コチラ!
・・・このツイートで僕が言いたかったことは
「イヤ」と『嫌い』は混同しやすいよねー!
ということです(^^)
さっそく深堀っていきましょー!!
■「イヤ」と「嫌い」はどう違う?
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「イヤ(嫌)」と『嫌い』
どちらも”嫌”という漢字を使った似たような表現だが、この違いについて改めて考えてみたいと思うんだ。
「イヤ」は、その時の条件や気分次第で変わるもの。
(例えば)
『野菜が嫌い』な人がいたとする。
しかしその人が健康診断で重大な欠陥が見つかり、野菜をもっと食べた方が良いと医者に勧められたら、「イヤ」だけど、野菜を食べるかもしれない。
また、恋に落ちた相手が野菜好きで、一緒に野菜を食べるのは「イヤ」だったけれど、恋する相手に勧められて食べてみることもあるだろう。
一緒に食べる時間が楽しかったり、食べているうちに「イヤじゃなくなる」ということもある。
・・・このくらい、「イヤ」はフワフワとした感情。
無知による恐れであったり、自分を譲りたくない、相手に合わせたくないという自尊心も、大きく関わってくる。
「なんとなく気持ちがワルイ」と、似た感情のように思う。
・・・その一方で。
『嫌い』は、自身の体験が伴った、簡単には変わらない自らの意思。
(例えば)
僕はシイタケが『嫌い』
昔から色んな食べ方で食べる機会はあったけれど、その味わいを知れば知るほど嫌いになった。
その理由は、プニっとした食感と匂いを、身体が拒否するから。
なので、小さくカットして濃い出汁で煮込んだり、食感と匂いを消すような食べ方なら、食べることができる。
条件次第では食べるのが「イヤ」じゃなくなるけれど、僕はシイタケが『嫌い』だ。
・・・このくらい、『嫌い』の理由を辿ると、過去の体験が思い起こされるはず。
『嫌い』は思想的だし、ある種のアイデンティティーであるともいえる。
自分の根っこに、深く関わってくるようなものなんよね。
■イヤと嫌いは混同しがち
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このたそがれで僕が言いたいことは、
「イヤ」と『嫌い』は混同してしまいやすい、ということ。
例えば日常で感じる、『あの人、なんとなく嫌い』というある種の嫌悪感。
・・・これは実は、「イヤ」という感情なのでは?
『嫌い』には、自身の体験が必要。
あの人と深く接したことがない状態で感じる嫌いは、「よく知らないけどなんとなくイヤ」という感情のはず。
それを、『嫌い』と混同してしまう。
・・・それは、かつて自分が嫌った人と、あの人のイメージや特徴を、重ねてしまうから起こることなんよね。
(例えば)
元恋人に傷つけられて、嫌いになって別れて、その人はB型だった。
以降、B型の人を見るたびに「自分が嫌っていた元恋人」を思い起こして、目の前の人を嫌ってしまうようになった、ということもある。
(もっと言うと、自分を傷つけるような人を選んでしまった、かつての自分を嫌っているのかもね)
だけれども、それが「B型だからなんとなくイヤだ」という感情であるならば、相手の条件や自分の心一つで、好きに転じる可能性がある。
・・・「イヤよイヤよも好きのうち」とは、こういうことなんじゃない?
B型という相手の情報以外を知ろうとせずに、相手を嫌うのは、早すぎるのでは?
・・・子どもの頃に、親からコレを食べなさいと勧められて、「イヤだ!」と食わず嫌い的に拒否したこともあるよね。
食べたことがない、経験したことのない未知の食べ物だから「イヤ」なわけで、いざ食べてみて、それを『嫌う』のは仕方がない。
自分の体に合わなかったということで、それは自分の身体的な特徴だしね。
さらにそれは、自身の魅力にもなりうるアイデンティティーかもしれない。
『私はコレが嫌いです』という価値観があるからこそ、共感を呼び、似た価値観を持つ人との仲が深まることも、大いにありうる。
・・・しかし、この『嫌い』には自分の体験が伴っていないと、意味がないんよね。
「なんとなくイヤ」を、『嫌い』と表現していると、同調しか生まないから。
心からの共感を呼ぶものであれば、お互いの体験がどこかで繋がるから、『嫌い』から仲が深まっていく楽しさもある。
しかし同調から生まれる関係は非常に浅いもので、あっという間に自分が嫌われる対象に転じることもあるから、気をつけたいなぁと。
■【さいごに】誰が言ったかに振り回されない
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SNSを眺めているとさ。
よく知りもしない相手を「なんとなくイヤ」と感じることも、あると思う。
それは、それでいい。
・・・だけどその人を『嫌う』のなら、自分の体験を交えた理由がないと、理不尽だなとも思うんよね。
現代は情報が溢れているからこそ、「誰が言ったか」がとても大切。
だけど『自分が他人を嫌う基準』をも「誰が言ったか」に委ねると、無自覚に誰かを傷つけてしまう。
なんで嫌いなのか自分でもよく分からないけれど、とにかく嫌い!という鬱積した想いを、溜め込んでしまう。
・・・自分が大好きな人が「あの人は嫌いだ」と言っていたから、自分もあの人のことを、何となくイヤになったなぁ。
こういう感情を持つのは自然だし、現代の情報社会、ネット社会では日常的に起こることだと思う。
ただし、自分の中の「イヤ」を、相手に対する『嫌い』と発信するのなら、自分の体験を元に語らないとだよなぁと。
自分の経験上、あーゆう人はこういうところがあるから、嫌い。
・・・などと、自分が過去に嫌った人を重ねてラベリングするのではなくね。
(例えば)
パワハラをした人や企業が報道されると、「パワハラをするやつはクズだ!」という、自分の経験から、同調が起きる。
(その報道された人から、自分がパワハラを受けたという体験があるわけでもないにも関わらず)
多くの同調から導かれてコンプライアンスが出来上がり、新たなパワーとなる。
「このコンプラ基準に従えないやつは許さん!」という次のパワハラが起きる。
・・・っていう連鎖だよね。
・・・最後に、まとめるとさ(^^)
何を信じるのかを、自分で決めるのは大切なこと。
そのキッカケが、「尊敬するあの人が言ってたから」でもいいと思うんよ。
でもその尊敬する人が、自分の望み通りに振る舞わなくなると、信じられなくなってくるのかもしれない。
それは『自分を信じきれていないから』
自分の望みを満たしてくれるから、信じる!という条件付きだと、いつまでもブレ続ける。
そこに自分なりの基準を設けて、一度信じたことを信じ続けることが
”信念”
だよなぁと。
・・・そう思います(^^)
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