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「奥さん」になれない

昼のことである。
魚屋の店先にわたしはいた。
そこそこに店は混んでいて、三人いる魚屋のおじさんはそれぞれに水で濡れた手を忙しく動かしている、
切り身や刺身や丸の魚を新聞紙でくるんで、流れるようにそれをビニル袋に入れて釣り銭を渡す。

わたしはこういう時に、相手の動作の切れ間にうまく入り込むことが不得意だ。
そういえば、大縄跳びも苦手なのだった。
ちょうどよいタイミングを図れなくて、早すぎるか遅すぎるかしてばかりだった。

わたしは鯵か鯖かで迷っていた。
今日はどちらにせよ塩焼きのきぶんなのだった。
鯵の塩焼きか、鯖の塩焼きか。

迷っていると、おじさんの一人がわたしの前に半身を差し込むようにして「奥さん、いい鯖だよ、それは」という。
「奥さん」か。「奥さん」と来たか。
わたしは、生まれてこの方、奥さんにうまくなれた試しがないのだった。
大縄跳びのように、奥さんもまた苦手なのだった。
でも、ここは奥さんでいくのが一番スムーズだ。
わたしは考えうる限りの奥さんを総動員して、鯖を四切れ無事に買った。

日本語では二人称をあまり使わない。
魚屋の店先で「あなた、いい鯖ですよ」とは言われない。
魚屋でこれまで言われた呼びかけられ方としては、先ほどの「奥さん」の他に「おねえさん」、「お母さん」だろうか。
いずれもわたしは生まれてこの方うまくなれた気がしないものばかりなのだった。
こういう時に、変な気持ちにならない名称はないものかと思う。

そんなことを考えながら、ひんやりした白いビニル袋を下げて電車に乗った。
昼間の下り電車は空いていて、わたしはシートの端に腰を下ろした。
真向かいに人が座る。
60代くらいの女性で、おもむろに方形のオレンジのビニル包みを開いた。
中にはこれまたオレンジのアイスキャンディーが入っている。

女性はこのアイスキャンディーを完全には袋から出さないで、半分は袋に入れた状態でゆっくり食べ始める。
歯を立てて確実に口に入れていく。
オレンジの断片が口にゆっくり吸い込まれていく。
誰もそんなことに気を止めている人はおらず、女性は無事にそして確実にアイスキャンディーを食べ終えた。
そして次の駅で軽やかに降りて行った。

この駅で乗り込んできた人が、ふたたびこの席に座った。
今度もまた60代くらいの女性である。
半袖のサマーセーターに、黒いアームカバーをつけている。
サンバイザーを被って、こっくりと濃い眉墨でずいぶんはっきりと眉が描かれている。

膝の上に置かれた黒いリュックから、水のペットボトルと水色の水筒が取り出された。
水色の水筒は年季が入っていて、半分くらい水色の塗装が剥げてぎんいろが剥き出しになっている。
水筒の蓋を開けて、女性はペットボトルの水を注ぐ。
電車はゆるやかにカーブにさしかかり、わたしの体も少し左に傾く。
女性の体は、女性から見たら右に、わたしから見たら左に傾く。
水筒に水は注がれ続ける。

わたしは目を離すことができずに、それをじっと見つめる。
女性はひとしずくもこぼさずに、水を移し終えた。
わたしはやっとそこで息をついた。

女性は今度は薬を取り出した。
ツムラの漢方のようで10包ほどもある。
なれた手つきでそれを開けて、口にいれ、水筒の水でそれを飲み下す、というのを繰り返す。
一連の動作に無駄というものがない。
これを10回ほども繰り返すのか、と思いながら見ているわたしをよそに、へいきな顔で女性は薬を飲み終えて、そして降りて行った。

そしてまたその席には60代くらいの女性が腰を下ろした。
この人は何もかばんから取り出さないと、少し安心してみたいたのだけれど、次が終点というところでおもむろにラップに包まれたおにぎりが手提げかばんから取り出された。
あと数分で駅に着くということを知っているのだろうか、と思うので、ついついじっと見てしまう。
女性はチラリとわたしの方を見た。
気まずくなってわたしは目を伏せる。
女性はゆったりとラップをひらいておにぎりをふたくち食べた。
そしてまたラップに包んでかばんにしまって、あたりまえの顔で終点の駅に降りて行った。

今日はやたらにわたしの前に座る人が、いろいろなものを食べる日であった。
わたしもこういうことができたら、「奥さん」と呼ばれても大丈夫になるのだろうか。
「お姉さん」と呼ばれても、どぎまぎしないで魚を選べるんだろうか。

家に帰って新聞紙の包みを開けてみたら、鯖は店先で見るよりも一切れがたっぷり大きくて、ぎんいろに鈍く光って脂がのっていそうだった。
四切れのうち半分を塩焼きにして、半分は味噌煮にしようと思った。
冷蔵庫にしまいながら、少しだけ「奥さん」ぽい気分を高めて、そしてやっぱりあんまりうまくいかなかった。

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