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毒親に捧げた四半世紀⑥
中学生編
相も変わらず田舎なもので、進学と言いつつもメンツはほぼ変わらず 分校の生徒が5人ほどプラスされた状態でスタートした。
小学校より中学校の方が実家からは近かったので通学にかかる時間は半分程に。
まぁそれでも走って帰らなければ怒鳴られるのがデフォルトな理不尽スタイルは変わらずだったけど。
習い事のスイミング、劇団、ピアノは続行中だったけど、小学校高学年辺りから地元のスイミングではなく隣の市まで通うようになっていたので、車、電車、徒歩 合わせて片道1時間くらいになっていた。
単純計算で1日24時間のうち4時間がスイミングで消える為、宿題は電車に乗っている間の膝の上だったりも多々ある感じ。
そうでもしないと寝る時間が確保出来ないし、押せば押すほど睡魔に襲われて余計にタスクが処理出来ず、ベッドに辿り着けずに朝が近付いてくる悪循環だった。
さて、入学してすぐのこと。
中間テストがあるのは中学校に通ったことのある人ならわかるよね😇
五教科合計で420点ほどだったのだけど、母が目くじらを立てたのは数学の点数。
77点という数字を見た母はピアノの先生が兼業で家庭教師もしていた事を思い出したのか、その先生に頼み込んだらしく……ピアノの月謝に加えて➕500円で数学を教えてもらうことになった。
普通に考えて破格過ぎると思うけど、これに関しては完全なる先生の好意だったと思う。
学校の宿題だけでもヒィヒィだった私からすれば、更に持ち帰りタスクが増える事は正直しんど過ぎたけど…結果的に数学の点数は伸びたし、他の教科もたまに教えてくれたお陰で母から怒られる回数が減ったのは事実なので頭が上がらない。
そう、怒られる回数と書いたね。
初回では怒られなかったものの、その次のテストから適用された母からのボーダーライン。
各教科85点以上を獲得すること。
得意不得意関係無く全教科に適用されるこのルール、もちろん時間に余裕など無いので塾に通う事は一切無し。
ピアノの先生がみてくれるのは基本数学のみ。
時間の都合上、宿題が辛うじて済ませられるかどうかレベルなもんで予習復習の時間など無い。
スイミングに全振りしてるせいで朝のランニングは現時点でも続行中、常に睡眠不足の様な状態の体で必死に授業を聞くが、当時のノートはミミズが這ったような文字多め。(多分半分は寝てた)
84点以下を取った場合、何があるのか。
怒られます、もちろん当たり前のように怒られます。
謝罪のテンプレートはコチラ。
「𓏸𓏸点を取ってしまい、申し訳ありませんでした。今回の反省点は〜〜〜です。次回はこれを踏まえて〜〜〜します。」
テンプレがあるとは言え、我が母の事なのでもちろんその場の気分によって理不尽に激昂されたり、いつもは許される文言と同じことを言ってたとしても機嫌が悪ければ怒鳴られからの殴られ蹴られに発展することもありましたね。
ちなみにこれ、クリア出来なかった教科が3個あれば3回に分けて謝罪会見だかんね🫠
「国語は82点で……次回は……します。」
「理科は75点で……次回は……」
「社会は78点で……次k(以下略)」
同日に返された状態でも3回。
自尊心なんか育ちゃしない、友達が自分より低い点数取ってても親に怒られたりなんかしないって分かってたのもあって余計にしんどかった。
学校の先生から採点済の答案用紙手渡されて点数が見えた時点で号泣なんて数え切れないくらいある。
見兼ねたとある先生が83点を88点に書き換えてくれたことだってある。
本当はダメよ、テスト用紙だけ書き換えてとりあえずその日は家に帰って、数日後に渡されるテスト成績表(全ての点数が載ってる通信簿みたいなもの)には正規の点数が書いてあるから、運が良ければバレないし、悪ければそこで怒られる運ゲー。
そんな日々を送ってる私の心を心配した先生方から在学中ずっと、週に1時間ずつ心の相談室でのカウンセリングを入れられてた。
テストの点数が下がるのはマズいと分かってたせいか、美術や総合等のテストに響きにくい授業を選んで配慮までして。
そのおかげで何とか心が崩壊する事は避けられてたのかな?🤔
残念ながら全ての教科が85点をクリアして1度も怒られずに済んだテストは無かったけど、それでも基本五教科の合計400点以上はキープしてたのは頑張った方だと思うんだ。
転機があったのは中2の職場体験、中3の保育実習……たまたまどちらも同じ保育園に行った。
中2の時は、0歳児クラス。
中3の時は、1歳児クラス。
そう、偶然にも割り振られたクラスが1年ぶりの再会が出来る同じ子達。
元々小さい子が好きなのもあって保育園を希望してたけど、状況的にも条件的にも、保育士を目指したいと思う動機には十分すぎるほど素敵な出会いだった。
唯一心の拠り所だった劇団は中2の終わりに辞めさせられた。
「競泳で世界を目指すので本腰を入れる為に辞めます」とかいう当時の時点でスイミングが嫌いになっていた私が1ミリも思ってない文言を言わされての退団。
妹と母は辞めずに続行してたのは悔し過ぎて恨めし過ぎて羨まし過ぎて辛すぎたけど押し込んだ。
正直全てが嫌になった頃に出会った「保育士」という夢。
「親元を離れた方がいい」とアドバイスしてくる周りの大人の言葉。
全てひっくるめて自分の希望を叶え、安心を手に入れる為に自分が選べる道はなんなのか、色んな大人に質問し、応えてもらい、調べ尽くし、運も味方につけて出した結論。
高等学校で保育科があるのは県内で2校、寮に入れるのはそのうち1校、続けてきたピアノも生かせる、大好きな歌も歌える、嫌いなスイミングだけど水泳部のスポーツ特待が狙える学校。
たまたま私が高3の時 住んでる県が国体の開催県になる年齢だった為、国体メンバーを揃える為に4人募集していた内の1人に滑り込めた。
嫌々ながらも上記の条件をクリアした私は中3の秋、見事に高校側から声を掛けられた。
特待とまではいかなかったけれど、準特待という条件のお陰で学費も浮く、スイミングを続ければ母の機嫌を取れる、寮に入れる=実家から出られる、保育士が目指せる。
上手くプレゼンを父と母別々に続けていたお陰か、特に反対されることも無く進学先が決まった。
これを勝ち取る為に遊びや娯楽や安心はかなり我慢したものの、達成感は凄かったし、これから先、やっと自分の人生が良い方向に向かうのではと高揚感を胸に抱きながら卒業することが出来た。
保育園から中学卒業まで、ずっと同じメンツで育ったせいか同級生達は地元や親しい友人と離れ、それぞれ知らない人達が溢れる学校へ進学することに恐れを抱いてる子が多かった。
でも私は習い事で見知らぬ人達の中に飛び込むことは慣れていたので恐怖心も何も無かった。
ただただ嬉しい気持ちばかりで、ようやくこの地獄から抜け出せると、私の人生が始まると、逃げられると、希望を抱いて中学生活を終えた。
中学生編はこれにて終了。
次回高校生編で私は笑っているのでしょうか?
それでは👋