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寺子屋師匠の課外授業 戯作と往来物のはざま 滑稽文で学ぶ! 第4回

元をたどれば十返舎一九

一九作「魚づくし」を読み下す

年季奉公人請状のパロディは数多く作られている。すでにご紹介した魚尽くし、鳥尽くしの他、青物や酒、銭、雷、地震、異国、なかには病や往生際に関するものなど実にさまざま。こういった滑稽文は一枚刷りや二丁刷りの小冊子で売り出されるものが多く、江戸後期には滑稽小噺を集めてまとめた草双紙が売り出される。

『大寄噺の尻馬』(浪華 松栄堂板)はそういった本の一冊だが、この初編に精耕堂師匠が書き写した魚尽くしの「年季奉公人請状之事」とよく似た内容の十返舎一九作「魚づくし口あい 奉公人請状之事 並に酒づくし新酒手形の事」(以下「魚づくし」)の二丁刷りが所収されている。一九の魚尽くしの文面は以下の通り。振り仮名は原文のまま、( )のしゃれ解釈は高木侃氏の論文「契約書式の戯文 徳川時代庶民契約意識の一斑」を参考とした。

『大寄噺の尻馬』初編 早稲田大学図書館所蔵

うをづくし口合もんく 奉公人請状之事ほうこうにんうけじゃうのこと

此四郎このしろうと申もの 生国しやうこく京都蛸薬師たこやくしうを腹腸はらわた屋町ひつかけ上ルあがる とんびの小 丹後たんご鰯郎借屋骨いわしらうかりやほねたつ右衛門せがれ まへより能存田主よくぞんじたぬし(慥か)なる者ゆへ 我ら請人われらうけにん太刀魚たちうを(立ち)つかまつりかまぼうこ(蒲鉾と奉公)につなし(鯯と差出)候処実正じつしやう也 ねんの儀はほね正月より三月桜鯛さくらだい迄 年切給銀ねんきりきうぎんとして鰊銀にしんぎん(二朱銀)三ツ はつの(初の身)百目 慥ニ請取からさけなく(忝く)候 仕着しきせの義はなつ鱈帷子たらかたびら 冬は鮎木綿嶋布子あいもめんじまぬのこ 並ニいとよりじまおびすじ被下候約束やくそくにて御座候

一御はつとう(御法度)くらげ切身きりみたんご(切支丹)づけころだいのすじがつほにてこちなく(無御座)候 宗旨しうし鯛々たい〳〵(代々)めぐろ山ちんかう(珍肴)いん寺中鯲じちうどじやうじるしに無相違そういなく候 かつ又此者ねんうち ぶりなる干物鯉ひものこい 其上不義魳ふぎかますいたさせ申間敷候

若取逃掛鯛もしとりにげかけだい(駆落ち)仕候て いづくへ飛魚とびうをがざみ(蝤蛑)するめ共 請人罷うけにんまかり出 早速青魚子さつそくさごし(青箭魚と探し)いでだこ(奉り)候て 定之さだめの年切身馬刀ねんきりみまて(マテ貝と迄) 急度きっとつとめさせ可申候 もしにいりがら(炒り殻と気に入らない)に候ハゝ すぐさまかはりさつさばいりこ仕候 鰈事かれことに付 鱶方ふかかたよりいかなる義申候共 此魴鮄ほうぼうにて埒明らちあけきすごほども其元そのもとうなぎかけ申なまずく候(少しも貴殿へ苦労を掛けまじく候) ごまめのため(後日の為)一合いちごう(請状)よつてはうらんのごとし(仍て如件)       

  魚嶋宝年うをじまほうねん はぜの九ウ月  
                奉公人ほうこうにん 此四郎このしろう         
                 京都蛸薬師魚たこやくしうをはらわたや町
                 ひつかけ上ル あらや九郎兵衛かしや
                をや  ほね屋たつ右衛門
                 かたからもの町めぐろやすき
                請人うけにん すつぽん屋ます
    くじらこい之助殿どの

表紙絵(有楽斎長秀画)の題目が記された横には、板元名が記されている。「大坂日本橋南詰壱丁東へ入 本安板」とあるが、本安は略称であり、正式には松栄堂本屋安兵衛という。本安としてすでに発行していた二丁刷りや四丁刷りの小噺を張り合わせ、初編は桂文治(滑稽が得意な上方三代目か)、二編は十返舎一九、三編は立田土瓶を編者に立て、新たに草紙物として出板したわけだ。著作権がない時代、板木を再利用して本を作るのは勝手次第で、松栄堂の目玉商品だった尻馬は、おおいに利益をもたらしたことだろう。

出版年が不明ではあるが、所収された他の落とし噺の文中に「天保と年号がかはつたは御即位という事じゃが・・」とあることや、一九が天保二年に没していることを考えると、『大寄噺の尻馬』は天保初年の発行と考えられる。一九が書き下ろし、冊子として売り出されたのは、当然それより前ということになる。

享和二年(1802)に『浮世道中膝栗毛』初編を出板、好評を博し、以後文政五年(1822)まで『東海道中膝栗毛』、『続膝栗毛』と二十年余り書き続けた江戸の人気戯作者が、なぜ大坂の本安から滑稽咄を出したのだろう。

駿府の下級武士の子として生まれた十辺舎一九(明和2年~天保2年・1765~1831)は、天明八年に大坂町奉行である小田切土佐守に仕え、大坂に住んだことがある。この間、浄瑠璃作者・近松与七として活躍したこともあり、芝居小屋のある道頓堀に店を構えていた本安とは、以前から馴染みがあったと推量できる。『笑いの戯作者 十返舎一九』(棚橋正博著)の年表によれば、最後に大坂に滞在したのは文化八年(1812)とのこと。その時、在坂時代の縁で頼まれ、このおどけ文句が売り出されたのではないだろうか。表紙には「江戸 十編舎一九作」と大きく書かれ、江戸の有名人として名前が宣伝に使われている。地名には、京都蛸薬師や唐物町、魚名もコノシロの関西での呼び名「つなし」をつかうなど、ご当地色を出している。

男妾受状

一九が奉公人請状のパロディを創作し始めたのは、実は享和年間(1801~1804)まで遡る。滑稽本『諸用 附会案文(こぢつけあんぶん)』に掲載された「高野六十那智八十男妾受状」(以下「男妾受状」)がそれであり、管見の限り、この作品が請状パロディの嚆矢といえる。この本は天道様、お星様、雷神、地震を引き起こすとされたナマズといった恵みや災害を及ぼす自然や、竜宮城、化物、猩々といった想像上の産物に向けたウイットに富んだ手紙文例集を中心にすえているが、頭書のいちばんに「男妾受状」が掲載されている。凡例には「宛字(あてじ)こぢ附等を専らに著したるもの」であり、「手形證文づくしを書たる本 世にあまたありといへども 化物屋敷売券状 高野六十那智八十男妾受状 上戸酒の寺請をのせず 其外諸書にもれたる証文一切の文言委細を記す」とある。この文面からも請状を滑稽に仕立てた最初の本、との自負がうかがわれる。

奉公人請状の題目「高野六十那智八十男妾受状」は、高野山では六十歳、那智山では八十歳まで男妾を勤めたとの風聞からきており、「男妾受状」の奉公人は六十八歳の何左衛門、職種は若衆妾、つまり男色のお相手、給金は一カ月寺参り散銭(賽銭)二百文、仕着せは夏の越中ふんどし、冬の紙子袖なし羽織などと雇用条件が記され、痔持ちや老衰など面倒を起こした時は引き取り、雇用主に迷惑を掛けないことを約束している。若衆相手の男色が盛んな江戸期にしても、「棺桶え片足踏込罷有役害者(厄介者)」と、高齢者の男妾はどこかものがなしい。

同じ奉公人請状を素材とした戯文ではあるが、もっぱらアイロニックな笑いを得ようと奇抜な内容とした「男妾受状」と、こじ付けながら魚の名を多く折り込んだ「魚づくし」では随分と趣を異にする。「魚づくし」には、コノシロ、タコ、イワシ、タチウオ、ツナシ、サクラダイ、ニシン、初の身(マグロ)、サケ、タラ、アユ、イトヨリ、クラゲ、コロダイ、スジカツオ、コチ、タイ、ドジョウ、ブリ、コイ、カマス、トビウオ、ガザミ(ワタリガニ)、サゴシ(サワラの幼魚)、マテ貝、サバ、カレイ、フカ、イカ、ホウボウ、キスゴ、ウナギ、ナマズ、ハゼ、アラ、スッポン、マス、クジラと三十八種の魚の名が折り込まれている。縁語も腹腸、骨、かまぼこ、切身、珍肴、干物、掛鯛、いりがら、刺し鯖、いりこ、ごまめなどがちりばめられている。

魚の名を漢字で羅列したものは、往来物にも数多くある。魚偏だけでも十一画もあり文字を覚えるのに苦労するものの一つだ。これを単に字を書き連ねた手本を見つつ学ぶより、このように地口やこじつけを駆使した文面で覚えた方が印象的だし、何しろ面白い。同時に就職先へ提出する證文の書き方を、内容は戯れであるにしても笑いのうちに自然と身に着けられるのは魅力だ。

多くの往来物の作者でもあった一九

一九は滑稽本作者として有名であるが、実は戯作者では最も多くの往来物を手掛けた人物でもある。文筆家ならではの才を活かし、ヒット作の『手紙の文言』や『永福用文章』、『算筆早まなび』(すべて享和2年・1802)といった往来物の文例集をまず初めに手掛けるが、そのなかに奉公人請状の模範文例ものせている。その二年後、パロディ化した『諸用附会案文』が出板されたわけで、「男妾受状」が一九先生の戯作者の血が書かせたとするなら、「魚づくし」は往来物作者と戯作者のあいだの血が生み出したと思えるのである。

一九の初期の黄表紙作品『初登山手習方帖』(寛政8年・1796)では、勉強嫌いでどの寺子屋師匠からも追い出される問題児・長松(15歳)が主人公である。学問の神様として崇められる天神様が登場し、菓子の庭や遊興といった元来子どもが夢見るような望みを次々かなえてやり、ついには草紙の鎧、筆の打物(刀や長刀)を携え、「寺入りは武士の戦場へ向かうが如し」と言いつつ初登山する大勢の子どもたちの仲間になりたいと望み、あっぱれ見事な席書をする。これらはすべて一睡の夢の出来事であったが、それ以来心を入れ替え、真面目に手習いをすると親に誓うという物語。やんちゃな子ども心と子育てに悩む親心をうまくとらえている。

画も一九作で、凧絵や襖絵に東洲斎写楽や耳鳥斎の名が小さく書かれており、作者の茶目っ気がうかがわれる。「千両の金を積むといえども 一日の学には如かず」(『実語教』)や、「一日一字学 三百六十字」(『童子教』)といった手習いの常套句、「この山ヘ上がりゃとんだ面白きことあれども たやすくは上がりがたし あの‥荷車を押すが如くにて 少しにても油断すればあとへもどるなり」とたゆまず努力することの肝要など、学びの要諦が処々に説かれている。

文政五年から八年(1822~1825)にかけては、三十種以上の往来物が一九の名で大量出板されている。しかも教訓、歴史、地理、諸職、消息などジャンルもさまざま。『近世庶民教育と出版文化』(丹和浩著)によれば、その多くが『和漢三才図会』から材を取ったものであり、「企画自体、書肆主導のものであったように思われる」と推察されているように、執筆に一九自身がどの程度関わったかは不明である。

しかしその後の『宝船桂帆柱』、『家財繁栄抄』(文政10年・1827)や『家内安全集』(文政12年・1829)は、小池正胤氏が「往来物合巻」と称すべきものであり、「滑稽味を加えて読者への興味関心を誘いながら読者の日常的知識の啓蒙にも役立てようと試みた作品」(『研究資料日本古典文学○4近世小説』・棚橋正博著『笑いの戯作者十返舎一九』からの孫引き)と評されているように、一九らしい作品である。

『家財繁栄抄』は、まさに物尽くしの地口絵本で、魚、青菜、鳥、獣、虫の名を地口に仕立て、魚尽くしの「ゆでだこかしく」(めでたくかしく)、青菜尽くしの「なたまめのつな」(渡辺綱)、鳥尽くしの「とびはみちづれ」(旅は道連れ)など、挿絵と相まって図鑑のように楽しめる。

『家財繁栄抄』 国立国会図書館所蔵

『宝船桂帆柱』は三十二種の諸職を狂歌で紹介し、頭書には道具や家屋の名称を記したより往来物らしい作品といえる。歌川広重の画が、諸職の理解を深めるのに役立っているし、見ているだけで楽しい。序文には「童蒙のために誌す あれ一時の戯れに似てまたその益なきにしもあらず」と、自ら子どもの啓蒙の為に著した本であることを述べている。ただ本文はあくまで狂歌であり、例えば「紙漉」は「かせき(稼ぎ)さへすれば 家内も機嫌よく 笑ふかどには 福の紙すき 〽くらいうちから くさをたゝきすき上るまでが大ぼねなり」と、勤労の大変さを述べる中にも滑稽味がある。

地口にしても狂歌にしても、一見ふざけた内容にみえて、実は読む側も大いに知恵を巡らさなければならない。一九の作る「往来物合巻」は、長松のような勉強嫌いな子どもでも喜んで学べ、柔軟な思考力を培うには、もってこいの教材といえよう。

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