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寺子屋師匠の課外授業~戯作と往来物のはざま 滑稽文で学ぶ! 第2回 魚尽くしの年季奉公人請状

魚尽くしの年季奉公人請状

江戸時代、証文作成は必須

「年季奉公人請状」とは、奉公人の保証人である請人が雇用先に提出する保証証書である。典型的な書面では、第一項に奉公人の身元証明、年季、給金、仕着せ(主人から奉公人に与えられる季節の衣類)について記し、第二項で公儀法度に背かせないことを保証、宗旨を明らかにし、決してキリシタンではないこと、また当人が面倒(駆け落ち、取り逃げなど)を起こした際の責任の所在を明確にする。文末は、「後日の為、請状よっくだんの如し」の一言で締め、請人等が署名、加判し、最後に奉公先の屋号と主人の名を書く。こうした証文を作成し、主人に提出する手続きを経て、当時の雇用契約は正式に成り立ったのである。一般の奉公はもちろんの事、春をひさぐ遊女や飯盛女の雇用などにも必要なものであり、この書面の作成ができないことにはどんな奉公もままならぬわけだ。

余談だが、東京藝術大学美術館で開催された「大吉原展」に「揚屋差紙」が展示されていた。これは、客をもてなす揚屋側が遊女を囲っている店に対し差し出す依頼状だが、客が御法度に触れる人物ではないことを保証する内容であり、文面は請状の常套句を簡略化したものであった。一晩の遊女の借り受けにも保証詔書が必要とは! 江戸はあらゆるところで証文が飛び交っていたことだろう。

寺子屋では証文の書き方を教えるが、往来物の「用文章」にはこの「奉公人請状之事」の雛形が多く載せられている。これから紹介するのは、その請状を面白く滑稽文に仕立てたものである。地口(関西では口合いという)は、よく知られた成句をよく似た音の言葉に言い換え、滑稽味を出す言葉遊びをいうが、当時は誰もがそらんじられた文面を素材としたことで、多少こじつけが過ぎた地口でも当時ならしゃれとして通じたであろう。いわば最も長文の地口作品といっていいのかもしれない。


師匠が書き記したのは、魚尽くしと鳥尽くしの二枚である。ルビは原文のまま、( )のしゃれ解釈は高木侃氏の論文「契約書式の戯文 ―徳川時代庶民契約意識の一斑―」を参考にさせていただいた。

魚尽くしの年季奉公人請状

年季奉公人請状之事 
一此たい之助と申者 生国ハ大海の国 浜辺郡七里なゝさと村にて
 慥成魚ニ御座候ニ付 あわび(私)共うなぎ(請け人)ニ罷立 魚田(貴殿)方
 へ魴鮄ぼう〳〵(奉公)ニ
 目差いわし(差し遣わし)申候処実正也 年季の儀ハ水の上(壬) 子ノ
 三月より暮(戊)の塩鰹(正月)迄 中年田作ごまめ(五年)ニ相極 御給金
 として鯼𫙠いしもちにべ海馬あしか(慥か)に受取申候 御仕着の儀ハ夏ハ
 脊開の干物(単衣もの)一つ 冬ハ生塩生海鼠ふえんなまこ(木綿布子)一つ可被下候

一宗旨の儀は代々たこ天蓋てんがい宗(天台宗)にて寺は芝蝦しばえび雑魚ざこ
 場塩辛ばしほから鮟鱇あんかう寺 生鯡和尚なまくさおせう 旦那紛無御座候
 御勝手(御法度)の𩻒䰵あんほんたん(キリシタン)宗にては無御座候 此者義脇よ
 り王餘かれ
 魚魥いこち(かれこれ)と申候歟 又ハ御大切の金魚(金子)ヲ持とびうをすばしり(取
 り逃げ)に
 仕候歟 又は台所の女中ふぐ(不義)の沈亀すつほん(出奔)(に)抔仕候ハゝ
 鮫煑あらに(私)とも
 早速罷出 急度埒明魚田きよでん(貴殿)方へひしこ(少し)もまぐろ(苦労)にあんか
 け(相懸け)申
 間鋪候 後日のさめ(為)證文仍而くじら(件)のごとし
  ぶり烏賊いか元年
   いなのはつ松魚  こいのこくしゃう(濃醤)壱丁目
             請人 すゝき屋半平
            ふぐの鉄砲汁下もの店
             人主 いわし屋この四郎
    板台屋飛右衛門殿

年季奉公人請状之事 唐澤博物館蔵 *無断複製禁止

文中に登場する魚の名33
鯛(タイ)・蚫(アワビ)・鱣(ウナギ)・魴鮄(ホウボウ)・鰯(イワシ)・鰹(カツオ)・
鯼𫙠(イシモチ)・鮸(ニベ)・海馬(アシカ)・生海鼠(ナマコ)・蛸(タコ)・
芝蝦(シバエビ)・鮟鱇(アンコウ)・鯡(ニシン)・𩻒䰵(アンポンタン)・
王餘魚(カレイ)・魥(コチ)・金魚(キンギョ)・鰩(トビウオ)・鰡(スバシリ)・
鰒(フグ)・沈亀(スッポン)・鮫(アラ)・鯷(ヒシコ)・鯢(マグロ)・さめ(サメ)・
鯨(クジラ)・鰤(ブリ)・烏賊(イカ)・松魚(カツオ)・鯉(コイ)・鱸(スズキ)・
この四郎(コノシロ)

文の構成は雛形に准じ、第一項に身元証明、年季、給金、仕着の事、第二項に宗旨を明らかにし、切支丹でないこと、面倒を起こした際の責任が請人にあることを記し、文末は常套句である「為後日仍如件」の地口「後日のさめ証文仍て鯨のごとし」で締めている。

これによると鯛之介の年季は、「水の上子の三月」つまり壬子(みずのえね)三月から「暮(戊)の塩鰹」までとある。十干十二支であらわす和暦では、壬子の次に十干が戊にあたる年は戊午(つちのえうま)である。つまり「中年田作(なかどしごまめ)」とは、奉公の期間である中年が壬子と戊午を挟む五年との意味にとれる。「塩鰹」は、「正月」のしゃれ言葉として使われる。

御給金として「鯼𫙠鮸」と、何やら魚偏の難しい文字が三つ並んでいる。文中では「鯼𫙠」の二字で「いしもち」とルビが振ってあるが、本来「鯼」一字で「いしもち」と読める。「𫙠」は海の豕(いのこ)で「いるか」のことである。「鮸」はニベという魚で、江戸期には浮袋から接着剤となる膠(にかわ)が作られたこともあり、今よりなじみのある魚だった(写真1)。とりつきようがない、の意味で使われる「にべもない」の語源となった魚でもある。江戸の雇用契約では、手付金を最初に渡すのを慣例としていたので、「いしもちにべ慥かに受取申候」の意は、イシモチを二尾受け取ったということだろうか。それとも大奮発して「一両二分」の地口だろうか。

【写真1】ニベの浮袋から膠が作られた 『梅園魚品図正』国立国会図書館所蔵

夏と冬に雇主から支給される衣服の御仕着は、夏は単衣もの(干物)、冬は木綿布子(生塩生海鼠)と読みとれる。「生塩(ふえん)」は無塩、布子(ぬのこ)は温かな綿入れ木綿のことをいう。

第二項の宗旨「蛸の天蓋宗」は「天台宗」の地口であるが、なかなかに言い得て妙。天蓋は瓔珞などの飾り物がぶら下がった形状が蛸を連想するらしく、僧侶の隠語で蛸を意味する。まさになまくさ坊主、これを揶揄して、「酢天蓋などこしらへて 囲待ち」(『柳多留』二十篇)などと川柳に詠まれている。殺生を禁じる戒律を破って酢だこを作り、囲っているのはもちろん妾である。

「御勝手の𩻒䰵宗」は「御法度のキリシタン」の地口だが、「アンポンタン」は、『魚鑑』(武井周作著 天保二年・1831)に「カサゴを俗にアンポンタンという」とあり、また毛利梅園の『梅園魚品図正』(天保六年・1835)にも、「カサ子」の絵図の詞書に「カサ子 又アンポンタンとも言う 又ヤナギノマヒ」と書かれている(写真2)。何とも情けない別称だが、「寛政の末 江戸に出回ったが、味がよくなかったのでいう」(『広辞苑』)といった説やカサゴの姿かたちに起因するものなど、理由はいろいろ。今では高級魚のカサゴにも不名誉な時代があったものだ。「𩻒䰵」と書いてアンポンタンと読ませているが、「𩻒」はカツオ、「䰵」はボラのこと。なんと旁の「笠」と「子」で「カサゴ」、これをアンポンタンと読ませるとは、恐れ入りやの鬼子母神である。

【写真2】アンポンタンはカサゴの別称 『梅園魚品図正』国立国会図書館所蔵

「御大切の金魚」の「金魚」(写真3)は、「金子」のしゃれ。高価だった金魚も徐々に庶民に普及し、文化文政期にはブームを呼び起こし、風鈴の中に金魚を入れた金魚玉も売られた。金子も金魚も大切なもので、それを取り逃げすることを「トビウオ、スバシリ」とはうまい言い回しである。ちなみに出世魚ボラの稚魚名であるスバシリは、本来「鯐」と書き、文中の「鰡」は成長したボラのことである。

【写真3】 金魚の渡来は元和年中とある 『梅園魚品図正』国立国会図書館所蔵

「不義の出奔」を「鰒の沈亀(ふぐのすっぽん)」としゃれるのも面白い。「鰒」はフグの他にアワビとも読むので紛らわしい一字だ。スッポンは陸に上がる亀と違い、水中に棲むところから「沈亀」としたのだろう。

「鮫煑」と書いて「さめに」ではなく「あらに」、「鯢」と書いて「めくじら」「さんしょううお」ではなく「まぐろ」とルビが振られているのは、作者ならではの発想だろうか。「生くさ」の「くさ」の字などは、作者の創作漢字ではないかといった説まであるが、「鯵」が「なまぐさい」の意味を持つことから分かるように、青魚は白身の魚に比べ生臭く感じるところから、ここはニシンを意味する「鯡」でないかと判断した。

年号には「鰤烏賊元年 いなのはつ松魚」と江戸っ子が好きな初鰹を入れ、差出人の住所を鯉の濃醤(鯉こく)、フグの鉄砲汁と汁物にするなど、遊び心が隅々まで行き渡っている。

文中に登場する魚は、ほ乳類のアシカも入れて三十三種類、それに加え、魚田(魚の味噌田楽)、目差(目刺し)、田作(ごまめ)、干物、塩辛、鮫煮(あら煮)、あんかけなどの加工品や、大海、浜辺、雑喉場、生鯡(なまくさ)、板台といった縁語をまじえ、見事な魚尽くしとなっている。
(唐澤るり子)

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