寺子屋師匠の課外授業戯作と往来物のはざま 滑稽文で学ぶ! 第3回
鳥尽くしの年季奉公人請状
鳥尽くしの年季奉公人請状を読み下す
年季奉公鳥請状之事
一此烏勘左衛門と申鳥 生国は鸚鵡の国 黄鶏郡
顔白村にて 慥成鳥ニ御座候ニ付 羽白(私)ども鶉(請け人)ニ
罷立 貴殿方へ鳳凰(奉公)に 鷹鷲(遣わし)申候処 実正也
年季の儀 水の上(壬) 鵜(卯)の三羽(三月)より 燕の帰までに
相極 御鵂鷴(給金) として鳦鶸鶏(受け取り)申候 御仕着
之義ハ 夏ハ火鳥物(単衣もの)壱つ 冬ハ雀之子(布子)一羽(一枚)
可被下候
一宗旨の儀ハ 代々鶯の法華経宗(法華宗)ニて 寺は
鶸猩ゝ音呼旦那ニ紛無御座候 五位鷺(御法度)の雉子
雲雀(キリシタン)宗にてハ無御座候 此鳥義 脇合より鵲鴒
剖葦鳥(あれこれ)に囀り候歟 御大切の錦鶏鳥(金子)を
鳶逃(取り逃げ)抔仕候歟 またハ御台所の諸鳥(女中)と鴛鴦
之様ニ番候ハゝ あら鷹(私)ども早々罷出 雀の
千声靏の一声ニて 埒明貴殿方へ少も
黒鴨(苦労)懸申間鋪候 為後日暹羅鶏(証文)仍て如孔雀(件)
鷭鴨鴈年(元年)
鶉三月
請鳥 雉子町 鳫金や燕九郎
鳥主 餌指町 鸚鵡や鳳次郎
ひるてんや 酉右衛門殿
ルビは読みやすさを考え筆者が加筆、しゃれ解釈は高木侃氏の論文「契約書式の戯文 徳川時代庶民契約意識の一班」を参考にさせていただいた。
鳥尽くしの奉公人は、「烏勘左衛門」である。語呂の良い名であるが、『嬉遊笑覧』(喜多村信節著・文政十三年・1830)に、「からすかん左衛門 うぬが内はやける 早くいつて水かけろ」という童のことわざが記録されている。夕日に映える空を火事に見立て、巣に帰っていくカラスに向かい子どもたちが囃し立てたのだろうが、ひと昔前の「カラスの勝手でしょ」同様に、「か」の繰り返しは乗りが良い。
生国は「鸚鵡の国黄鶏郡顔白村」とある。オウムは輸入鳥であるが七世紀と歴史は古く、清少納言の『枕草子』にも「鳥は、異所のものなれど、あうむ、いとあはれなり。人のいふらんことをまねぶらんよ」と、言葉をまねる鳥として認識されている。カシワは柏の葉がちょっと紅葉したような黄褐色した羽毛をもつニワトリをいう。雌鶏が特に美味とされ、『梅園禽譜』(毛利梅園画・天保十年・1839)には「黄鶏」ではなく「黄雌鶏」と記され、「本草黄雌鶏其性 最もヨキ事ヲ充 時珍モ脾胃ヲ益し他鶏より性勝れり」と本草学的にも他のニワトリと比べ効能が優れるとある(写真1)。村の名のカオジロは、江戸期の鳥類図鑑には見当たらず、頬や眉斑(びはん)が白いホオジロのことかと思う。
「私ども 請け人罷りたち」が「羽白ども 鶉罷立」とは、かなり無理なこじつけである。請状本文を知らなければ理解不能だろう。ハジロは「江戸にて羽白と呼ぶ この鶏白からず 羽白は羽の各(おのおの)白きカモのようなれども 此の鴨老すれば嘴の先皆白色となる故に嘴白を通称ハジロという」(『梅園禽譜』)と命名のされ方も意外なもので、ナント黒野鴨のことである(写真2)。
給金のしゃれである「鵂鷴」の文字、「鵂」はみみずく、「鷴」は白い雉を意味する。魚尽くしの「𩻒䰵」と同じように、「休」と「閑」でキュウカンと読ませる当て字である。
「脇合より鵲(鶺)鴒剖葦鳥に囀り」は、傍からあれこれ文句を言われることを意味する。ともに飼い和鳥で、セキレイは江戸城で、ヨシキリは滝沢馬琴に飼われていた記録がある。籠の中で高い声でさえずるセキレイと「ギョギョシ」と耳障りな声でなくヨシキリは、少々おしゃべりが過ぎると比喩に使われたのだろう。
「御大切の錦鶏鳥を鳶逃」は、鳥の特徴をうまくとらえた言い回しである。光沢があり色鮮やかなキンケイは、花鳥茶屋でしか見られない珍鳥であり、金子同様大切なもの(写真3)。トビ逃げは、「トビに油揚げさらわれる」という諺があるが如く、空から急降下し瞬く間にお弁当の揚げ物を持っていかれた私としては、字音だけでなくすんなり納得の地口である。
諺「鶴の一声」を「雀の千声 鶴の一声」とスズメと対比した言い回しは、古くは「スゞメノ一声ヨリツルノ一声ヲ云心ソ」(『玉塵抄』)と室町期に成立した書物に早くもみられる。また、浄瑠璃作者・近松門左衛門の『傾城島原蛙合戦』(延享四年・1719年11月竹本座)には「畠山殿和田殿歴々ありても、御前の執り成しは梶原様。雀の千声鶴の一声 頼みまするとぞ語りける」と、男勝りの琵琶姫が梶原景時に話しかける場面がある。元は対語であったものが簡略化し、「鶴の一声」のみで充分意を成すとして今に伝わったのだろう。
差出人は、「鳫金や燕九郎」と「鸚鵡や鳳次郎」のふたり。ツバメは古くは「ツバクラメ」といい、奈良時代に「ツバメ」とも呼ばれるようになったそうだ(写真4)。「ツバクラメ」が「ツバクロ」となり、地口で人名風に「ツバクロウ」としたわけだ。「鳫金や」といえば尾形光琳の生家である呉服商の屋号「雁金屋」を連想するが、光琳の代表作「燕子花図」の「燕」つながりから付けたのだろうか。
一方鳳次郎は、鳳五郎がダチョウをさす言葉であることと関係があるように思う。鳳五郎は駝鳥が長崎に持ち込まれたとき(実は駝鳥ではなくヒクイドリだったのだが)、蘭語のダチョウを意味する「Struis(ダチョウ) vogel(トリ)」のvogelが「ホウゴロウ」と聞こえたために付けられた異名といわれる。「鳳」は「おおとり」のこと、鳥類最大の駝鳥に偶然とはいえ、ピッタリの名前が付けられたものである。
"招き鳥"で商売繁盛
鳳凰といった架空の鳥や、ツバメの表記が燕と鳦の二字あるのを含め、三十五の鳥の名が折り込まれている。中でもオウムやキュウカン、ショウジョウインコ、キンケイ、シャモ、クジャクといった輸入鳥の名が多くあることに驚くが、こういった珍鳥を飼えた将軍家や大名に限らず、江戸の庶民もまた、花鳥茶屋や孔雀茶屋といった見世物小屋に出かけ、見て楽しんでいた。
『摂津名所図会』(秋里籬島著・寛政十年・一七八九)には、檻に入った二羽の孔雀を見物する人や、茶店に座してくつろぐ人の姿が描かれている(写真5)。詞書には「孔雀の錦毛の美なるを出し、其外諸鳥を飼て茶店の賑わひとなす事 これを俗にまねきといふ」とある。招き猫ならず、招き鳥で商売繁盛といったところだろう。
滝沢馬琴も小鳥を飼う
見るだけでなくペットとしての飼育もまた盛んだった。文中の中で飼育書『喚子鳥』(宝永七年・1710)などから推測できる飼い和鳥は、「法、法華経」との聞きなしでさえずりを楽しむウグイス(写真6)、鳴き声を競う品評会が催されたウズラ(写真7)をはじめ、ヒワ、スズメ、ヒバリ、セキレイ、オシドリ、それに飼育が難しいとされるツバメやヨシキリまで檻や籠に入れ飼われたと思われる。ウズラなどは巾着に入れて持ち歩く「巾着鶉」といわれる文化もあったそうな。
狂歌にも「まつ徳を とり屋のみせの 鶯は 高ひかひてに ありつき日星」(女流狂歌師・知恵内侍 『徳和歌後萬載集』天明五年)と詠まれ、春告鳥の初鳴きを心待ちにする人に高値で売らんとする鳥屋の気分をよく表している。
かの滝沢馬琴も執筆の疲れをいやすべく、文化十年(一八一三)から小鳥を飼い始め、難しいとされるヨシキリの飼育に挑戦し、カナリアの繁殖にも熱中している。天保五年には娘婿の渥美覚重に鳥の絵を模写させるなどして、自ら解説を書いた鳥類図鑑『禽鏡』を完成させている。何事にも詳細な調べを期す馬琴ではあるが、自らの保養の為に始めた鳥飼までもが旺盛な知識欲の対象となるところが流石である(参考文献『大江戸飼い鳥草紙』細川博昭著)。
さて、魚尽くしと鳥尽くしの請状の戯文をみてきたが、これとほぼ同文のものが高木侃氏の論文『契約書式の戯文 徳川時代庶民契約意識の一斑』に紹介されている。この二枚は「俳山亭文庫旧蔵文書」と来歴が記されており、元の所蔵者は群馬県の郷土史研究家・篠木弘明氏とのこと。篠木氏は上州に関する資料をコレクションされた方で、この戯文も上州で収集されたものと思われる。請状の戯文は定型化しているだけに作るのも簡単そうに見え、言葉遊びが好きなものなら挑戦したくなるのだろう、物を変え、品を変え、さまざまな戯文が各地で誕生した。上州と真岡、地理的に近いところで発見されたことから、もしかしたら北関東生まれの請状戯文なのかもしれない。
(唐澤るり子)