過去から学ぶこれからのこと
私は暇な時間を料理に作ることにあてている。昨日のメニューはゴーヤチャンプルーとコンソメスープだ。コンソメスープを作っているときに思い出した。保育園生のときに嫌いだったセロリの香りを。セロリなんて入れていない。だが保育園の給食でコンソメスープに入っていたセロリがどうしても食べることが出来なかった苦い思い出が匂いとなって私の過去を思い出させた。
私は記憶力が人と比べて悪い方だ。小学校の同級生いや中学校の同級生すら名前を忘れていることがある。ましてや保育園のときの記憶などない(はずだった)。しかし、コンソメスープを作ったおかげで保育園の頃の記憶が取り戻されたのだ。
その当時の私は河川敷を一番早く走り、劇の主役をして、一番目立つ大太鼓を叩いて。今の自分とは考えられないくらい対極にいる輝いた、前向きな人間であった。
そこで今回も考えた。どこの分岐点で道を間違えたら対極にまで行けるのかと。対極に行くためには前に進む道ばかり進んでいるはずがない、必ず後ろに進む必要がある。多分人生は前に進んでいっていると誰しもが思う。だけど本当は前にも後ろにも進んで終着点を見つけるのだ。
私は前に前に進もうとしすぎたのだ。だから、初めて壁にぶつかったときに越えられなかった。その結果として壁にあたって方向転換をして後ろに進んだ。そのまま自分は前だと思って後ろに進み続けていたから対極にいたのだ。
これは自分がチャレンジしてこなかったことに原因があると思う。チャレンジして壁を越えることが出来なかったら恥ずかしいと思っている幼い心のせいで、壁に立ち向かわなかった。受験もそうだし恋愛もそう。留学など少し興味が湧いたことなども。受験は必ず受かるところを受け、恋愛は気になる人をただ眺めるだけ、少し興味があることでさえ違った世界に飛び込むのが怖くてチャレンジしなかった。私は臆病なのだ。
もう少しで私は大人になる。社会人になれば分岐点は少なくなるだろう。つまり、この大学生の間に自分が納得のいく終着点へ近づく必要がある。別に昔自分がいた場所よりも先に自分の終着点があるかどうかは分からない。だけどこのまま後ろに進むことは間違いだと分かる。私は壁を超えて前に進みたい。その最初の一歩を今踏み出したばかりだ。