少しばかりの色づきを、あなたに向けて
料理は好きだがお菓子作りは嫌いだ、
そう豪語する女がいたらまずそいつは大雑把な性格だとみて間違いない。
男性諸君、あれは全くの別物なのだ。
お菓子作りは、計りのメモリとにらめっこできる女性のみに与えられる趣味であって、
決して米一合すらも目分量で炊いてしまえる女のすることではない。
だから私はお菓子を作らない。
つまりは御用達クックパッドの検索欄に
「チョコレート 簡単」
「チョコ菓子 オーブンなし」
などというワードは残るはずがなかったのだ。
いや、私の意地としては残したくなかった。
とうとう買ってきてしまった大量の板チョコいりのスーパーの袋を、キッチンにガサッとおきながらため息をつく。
「はぁー、しゃーない、やるか。」
誰に聞かせるでもない心の声がこぼれて消えた。2月も半ばに差し掛かかるというのに、タイル張りのキッチンでは息さえも白く主張する。
立春とはよく言ったもので、よっこらせと立ち上がった春は、もうしばらくだんまりを決め込んだらしい。いつになったら歩み始めるのか。
暖房のきかないキッチンの寒さに、もう一枚着込もうか考えながら、またも呟く。
「それより先に私の春だ。」
独り言がもうおばさんである。
そしてそのおばさんは、らしくもなく久方ぶりの小さな片想いに胸を振るわせ、またらしくもない計りとのにらめっこに挑戦しようとしている。
そう、バレンタイン。
ここ数年、会社の上司と同僚に義理という名の小包を振り分けるだけの行事と貸していた「それ」
一つ年上の中途採用くんが、目も当てられないミスをこっそりフォロー、なんて少女マンガ張りのイベントをかましてくれなかったら、今年も何の感情もわかないイベントだっただろう。
そう、バレンタイン。
「手作りが嬉しい」
社食で少し遅めのランチタイム、偶然耳にした一言。聞いてしまったからには、どんなお高いものであろうと効果は薄くなる気がしてならなかった。
クックパッドを開いて簡単そうな、それでいて本命感の見えるものをピックアップする。
「キャラメルチョコレートか」
キャラメルが家で製作可能だとは知らなかった。
チチチチチチ、ボンッ
鍋のなかに砂糖を入れて火にかける。
少しして白くこんもりとしていた砂糖が、透明にそして色づき始めた。
しゅわしゅわと音を立てて溶ける白い塊を眺めながら、ふと私はある友人の話を思い出した。
「傷ついた心って、お砂糖を焦がしたみたいなものなの」
彼女はお気に入りの喫茶店で、アイスコーヒーの氷に音をたてさせながらそう言った。
お砂糖でね、カラメルソースを作るとするじゃない。たくさんのお砂糖を火にかけて、ほら、少しずつ透明に、液体に、それがね思ったよりゆっくりなのよ。
伏し目がちに、ぽろぽろと言葉を落とす彼女は、目の前にいるのにどこにもいない、そんな女の子だった。
続けて彼女ははきだす。
でもね、透明になってきたそれが色づくまではあっという間なの、ねぇ、ほんとうに。ちょうどいい薄い茶色に留めておけるのなんて、瞬きする一瞬のことだわ。
その一瞬を過ぎてしまえば、ほら、いつの間にかお鍋に小さな焦げが、ふつふつと、分かる?
少しでも焦げちゃったら、消えないの、冷えて固まって、なめらかなカラメルソースの中でザラザラといつまでも口に残るのよ。
いつの間にか彼女のアイスコーヒーは、まだ四角い氷を残して、消えていた。
「心もそう、一度焦がしたものはどんなに小さくても消えないの」
口の中に残ったザラザラは、飲み込むしかないものね。
彼女は社交的で責任感が強く、それでいて朗らかで優しい。彼女の周りはいつも人と知識と言葉で溢れていて、眩しかった。暖かかった。
でも近づけば近づくほどに彼女との間には明確な距離があることに気づく。
彼女は小宇宙を小脇に抱えていた。磁力で人を惹き付け、太陽で暖め、月で優しく照らし、それでいて中心へとは寄せつけない。
中心がどこかもわからないのだから。
そんな想いが学生時代のほろ苦い思い出とともに次々と沸き起こる。どこからかほろ苦い香りも漂ってくるようだ。
「…ほろ苦い香り…」
はっ、と気づいた時には時既に遅し。
手元の小鍋は煙をはき、白い塊はいつの間にか真っ黒となりそこにへばりついていた。
「あ、あーあ。」
これは鍋を洗うのが大変だ。
思わずついたため息を素直に吐き出し、鍋を洗う。
いいんだ。
慌てなくとも、砂糖はいっぱいある。鍋も洗えば使える。計りのメモリを再び読むという、めんどくさい作業は増えたが、それでもまだ大丈夫。
確かに一度は失敗した。あと何度かは失敗するかもしれない。
それでもきっと私は、明日の少し遅めのランチタイムには彼に渡せるだろう。可愛らしくラッピングした、キャラメルチョコレート。
何度でも、やり直せばいいのだから。一度焦げたものは直らない。でも、だからこそ新しく一から作り出すことはできる。リスタート。いくつものスタートを重ねて私はここにいるのだ。
新しい砂糖を洗い立ての小鍋に入れながら、これが完成したら久しぶりに彼女に連絡をしてみようかと思った。
「久々に恋をしたんだ。」
鍋は焦がしたけれど、明日、前に進む準備をしてきたんだ。
きっと彼女は微笑みながらきいてくれるだろう。