牛化
ある朝、牛山 実瑠が不安な夢からふと目醒めると、肌寒さと同時に、頭がなんだか重く、背中が痒いことに気づく。
何だろう、変な病気にでもかかってしまったのだろうか。
ふと重い頭を押さえようとすると、何だか硬いものにぶち当たった。
「!?」
凄まじい違和感を感じ、起き上がろうと重い頭を何とか持ち上げてみる。
すると、またもや異変に気付く。
何と、パジャマに身を包んでいるはずの体は、一糸纏わぬ生まれたままの姿となっていたのだ。
まさか、夜中に何者かに襲われたかと思い、辺りを見回してみる。
しかし、きちんと整頓されている部屋は特に何の異変も無く、全くと言って良いほど事件が起こった様には見えなかった。
再び体の方を見てみるが、襲われた様な痕跡は全く無い。
良かった。と安心したのも束の間。
今度は、上手く起き上がる事が出来ない。
手足は特に何も異常が無いはずなのに、上手く立ち上がる事が出来ないのだ。
仕方なく、ベッドからわざと転げ落ち、四足歩行で這いつくばりながら、鏡の方へと向かう。
鏡の方へと目を向けると、そこにいた者は人間では無かった。
側頭部の巨大な角。
長くゴワゴワとした黒い髪。
大きく毛むくじゃらの耳。
そして、自分の顎から生えてきている、牛の物と思しき吻部。
それらを併せ持った、まるで牛と人間のキメラの様な怪物が鏡の前で這いつくばっていた。
「も、もぉおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお!?」
あまりの驚愕と絶望に、思わず大きな悲鳴を上げてしまう。
しかし、その悲痛な叫びも、今や完全に牛の物となってしまっていた。
厳密には声自体は変わっていないが、どんなに言葉を喋ろうとしても、牛の様にもぉ、としか喋れなくなっているのだ。
一体、自分の身の上に何事が起こったのか、と実瑠は考えてみた。
瞬時にこれは夢なのだと言う結論に至り、頰を引っ張ってみる。
痛い。
この痛みが、この有様が夢では無く現実なのだと言う残酷な真実を実瑠に突き付けた。
実瑠が更なる絶望に打ちひしがれていると、勢いよくドアが開いた。
そこに現れたのは、母親__。
「実瑠! 五月蝿いよ!! 一体何やって……って、何だいこいつは!? 気持ち悪い生き物だねぇ!!」
最悪な展開であった。
まさか、こんな姿を親に見られ、しかも気付いて貰えないだなんて。
いや、気付か無い方がある意味では良かったのかもしれないが、実瑠の頭の中には、そんな考えは一切入っていなかった。
言い訳しようと試みるも、結局もぉとしか泣く事が出来ず。
「五月蝿いねぇ、とっとと出て行きな!! ウチはアンタみたいな変な生き物飼う余裕なんて無いんだからね!! 全く、実瑠ったら一体いつあんなの拾ってきたのかしら……」
結局勢いよく外へと投げ出されてしまった。
バンッ!! ガチャリ
勢いよく扉を閉める音と、鍵をかける音だけが虚しく辺りに響く。
それでも実瑠は諦めずに、もおもお泣ながら扉に擦り寄り、扉を叩いた。
「もお、もおもおもお!!(お母さん! 私だよ! 実瑠だよ!! 早く気付いて!! )」
しかし。
「いつまでも五月蝿いねぇ、とっとと行ってしまいな!!」
母はそう怒鳴りながら、二階の窓からガラス製のコップを投げつけるだけであった。
ガッシャーン
それをすんでの所で避けるも、飛び散った破片で手を怪我した実瑠は、血と涙を流しながらその場を四足歩行で去っていく。
外は土砂降りの雨が降っていたが、そんな事を気にする余裕を今の実瑠は持っていなかった。
そんなことよりも重要なのは、家を追い出された自分は、これから一体生きていけばいいのかという事。
そんな事をぐるぐると考えながら、実瑠は街の中をトボトボ歩いていた。
ふと、ある考えが思いつく。
そうだ、彼氏の馬沢君に助けてもらおう!
彼ならきっと、こんなに憐れな私の事を助けてくれるに違いない!
そんな淡い期待を胸に、実瑠は馬沢君の家へと歩み出した。
そして、馬沢家のドアの前にて。
インターホンの所へは手が届かないので、彼の扉をドンドンと叩いてみる。
ガチャリ
「何だよ朝から五月蝿いなぁ。一体誰が……」
扉の中から、最後の希望である彼が現れた。
実瑠は早速、もおもおと彼に呼びかけ、否鳴きかけながら縋り付く。
しかし。
「あぁ? 何だこの妙に馴れ馴れしい変な生き物は。さっさとどっか行きな、もおもお五月蝿えんだよ」
彼の反応は想像以上に冷たく、手でしっしっと追い払う様な仕草を見せる。
それでも、実瑠は諦めずに彼に助けを求めた。
「もおもお、もおもおもお!!(馬沢君! 私だよ! 実瑠だよ!! お願い! 貴方だけが最後の希望なの!! 早く私を助けて!! )」
「だから五月蝿えって言ってんだよさっさと失せろキモいんだよ!!」
バシッ
バンッ
ガチャリ
だがその甲斐も空しく、腹を立てた彼は実瑠を思いっきり蹴り飛ばし、ドアを閉めて鍵をかけてしまった。
先程の蹴りと、親だけでなく彼氏も自分を見捨てたという非情な現実によって傷付けられた実瑠は、土砂降りの雨の中で__涙を流しながら嘲っていた。
ああ、どうせこんな事になるだろうとは、この姿になってしまった時点で薄々気付いていたよ。
もういい。
もう、どうでもいい。
とにかく今は、何も気にせず楽になりたい。
雨の中、牛と人間のキメラは横たわりながら、誰にも気付かれる事なくスッと意識を手放したのだった。