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セイとチョンイ #3

 ただただ絶望しかない日々を記憶することに意味があるのだろうか。
 セイは全七回の撮影(という名の強かん)さえ、記憶することを許さなかった。それがいつ終わるものともしれないものであったなら、どうやって日々を生き抜くことができるだろう。

 慣れること。
 考えないこと。
 自分ではなくなること。

 スンドギ。あの輝いていたスンドギは、地獄のなかでこう言った。
「チョンイがいるから耐えられる。ひとりなら耐えられなかっただろう」と。
 しかしチョンイにはもはや、記憶すべき人生は失われた。それは「いる」といえる状態なのだろうか?
 ねえ、わたしはまだ「いる」って言える? ほんとうにここにいるの?……ねえ、スニ。

 チョンイとスンドギの乗った輸送船は大連の港から南下し、上海から長江を遡行し、南京にたどり着いた。港町の大連とは比較にならないほどの大都会だったが、二人はその街並みを自由に鑑賞することはできなかった。散策しようという気力さえわかなかった。
 街は破壊されつくし、いまだ腐臭が漂っている。食事するのが躊躇われるほどの閉塞感。
 赤いレンガの建物に二人は入れられた。そこは次の目的地までの一夜の宿かと思ったが、そうではなかった。そこは縫製工場ではなかったし、うたで慰問する場所でもなかった。慰問は慰問でも、人を殺してきたご褒美にささげられる供物だ。人ながらにして「喰われる」のだ。新たな殺人に掻き立てるために、女が殺されるのだ。その施設の名は「世界館」。世界の中心がそこであるかのようなふざけた名前は、外観こそ立派だったが、中は元ある部屋をなお細長くベニヤ板で仕切った、ベッドひとつと手水桶があるだけの狭い空間だった。
 そして着いたその晩から地獄が始まった。これを地獄といわずに、なにを地獄というのか。生きることすら許されないというのに、生きることを強要される。存在を全否定されるというのに、存在を強要される。
 多くの人が同じ記憶を共有している。
 まずは軍医にまたぐらを覗かれたということ。その羞恥心は忘れがたいと同時に、忘れる「ほど」ではなかったともいえる。その後の体験と比べれば。その軍医の行為が性病検査というものだと知ったのは、だいぶあとになってからのことだ。その施設で何をするのかを知らないばかりでなく、性病という病があることすら知らなかったのだ。
 最初の相手は「ちょっと偉い人」だったということ。最初が軍医だったという人もいる。「偉い人」には変わりがない。少女たちにとってはおしなべて年配者だ。その男共のしたことは、チョンイやスンドギには理解しがたい行為だった。その行為になんの意味があるのかすらわからない。ただただ恐怖でしかない。
 そしてイヤだといえば殴られたこと。軍刀で傷つけられた人もいる。泣いて許された人は一人もいない。例外はないのだ。イヤだと言えば殴られ、許してくださいと言えば殴られ、ごめんなさいと言っても殴られた。何を言っても殴られた。殴られた。殴られた。
 衣服が脱がされるための存在であるのだとすれば、それには一体何の意味があるのだろう。下着が行為にとって邪魔なだけの存在だとすれば、それにはいったい何の意味があるだろう。わたしの軀が凌辱されるためがだけの存在であれば、わたしに一体何の存在価値があるだろう。
 毎晩のように悪夢のような現実にうなされる。今日は五人。明日は十人。週末は四十人。セックス、セックス、セックス。たくさんの男がわたしの上に乗っかかっては、通り過ぎていく。一人ひとりによって、わたしが削られていく。
 そしてあいつらは自分のモノを勝手に挿入し、勝手に出し、後片付けはわたしたちがする。サックを私が洗い、膣もわたしが洗い、シーツもわたしが洗い、洗われないのはわたし自身だけだ。汚されないためにわたしはわたしの心をしっかりガードし、わたしはわたしでなくなる。
 どこにもわたしはいないのだ。
 ある日、目が覚めてみると、世界館の中が騒然としていた。いや、違う。騒然ではない。誰もが息を潜め、ある者は背を伸ばし、あるものは腰をかがめて人の間に割り込もうとし、そうまでしてその光景を一目見ようとする。
 そうやってチョンイは部屋の中の光景を見た。スンドギも。
 部屋の床に女が横たわっていた。それを囲むようにしゃがみ込む、カナヤマとカナヤマの妾、そして軍医の姿。軍医はろくに触りもせず、首を横に振った。
「だめですな」
 カナヤマもため息をつく。
「だめですか、そうでしょうね」
「この女からはまだ回収できちゃいないのに。こんなに早く死なれちゃ大損だよ、全く。アンタももっとしっかりしたのをスカウトしないと、こっちが借金で倒産しちまうよ」
 カナヤマの妾はカナヤマを責める。自分自身がそうやってこれまで生きてきて、今はその才覚を遺憾なく発揮していた。世界館の主人はカナヤマではなく、むしろ妾のほうだった。でも誰も彼女の名前を知らない。皆には「おかあさん」と呼ばせていた。
 それにしても身も蓋もない会話だった。周囲に女たちの目があっても、このふたりはそれを気にすることはなかった。
 床には赤黒い吐瀉物で汚れている。白い肌は何やら変色している。青いブラウスだけが、なにやら浮いて映る。
 吐瀉物で髪が固まり、顔はよく見えなかったが、昨日まで普通に会話をしていたお姉さんと同一人物とはとても思えなかった。そんな予感もなかった。ただここまで自分に余裕がなくなると、他人に関心が持てなくなるのもまた事実だった。
 名前は、思い出せない。
 ここで暮らしていた名前も、カナヤマが勝手につけた源氏名であって、名前ではない。
 名もなき女性がひとり死んだに過ぎない。すぐに替えの効く。その死を故郷に知らさられることもないのだろう。
 無意味の死。わたしも死ねば間違いなくそうなる。赤黒い吐瀉物で、私の躯も塗り替えられる。
 チョンイとスンドギはここから離れ、外の空気を吸いたいと思った。世界館から自由に外に出ることはできない。このあたり一帯は慰安所が立ち並んでいて、路上には監視の目が光っている。ワンピースなど洋服で着飾った女性が通りに出ると、ひと目でそれとわかる。それにチョンイたちには言葉の問題もあった。朝鮮語を話せばおのずと目立つ。
「おかあさん、ちょっと外に出てくるね。気分を入れ替えなきゃしんどいよ。いいでしょ?」
 チョンイとスンドキは背後から飛んできた声の主を見た。世界館の古株で、名をアイコと言った。もちろん本名ではない。死んだ女と同じく、本当の名は知らない。
 アイコ姉さんはチョンイたちを連れだって外に出る。運河を眺めながら、アイコ姉さんはタバコに火をつける。
 世界館において、アイコは割と自由に行動できる稀有な人だった。
「アンタたちも見ただろ。人間、ああはなりたくはないよ。生き延びなきゃダメだわ」
 アイコはタバコケースを二人に差し出した。チョンイは一本指に挟み、お礼を言ってから火をつける。スンドギは手を付けなかった。
 クレゾールという薬がある。感染症を防ぐための薬で、行為が済んだあと、それを水で薄めた液体で膣を洗うのだ。性病予防のために。
 常に部屋にある消毒液だから、一番身近な自殺の方法だった。苦しいだろうな。でも苦しいとわかっていても、死ねるのは勇気なのだと、チョンイは思った。
 死ねるのは勇気があるから。死ねないわたしが間違っている。そうでしょう、スニ?
 スンドギはどう思っているのだろう。あるいはアイコ姉さんは。
 チョンイは世界館に来てタバコを覚えた。苦い煙を口いっぱいにほおばり、そして肺におしこむ。心地よい目眩がする。
 女がタバコを吸うなんて……とアボヂなら嫌な顔をするだろう。
 アボヂはいまどうしているだろう。心配してるだろうか。スニはちゃんと学校に行っているだろうか。鼻腔を満たす苦い煙に酔いながら、故郷の山河を思った。山あいの、ここと違って田舎だけれど、食べるものにも事欠いていたけれど、自由はあった。
「逃げたいと思ってる?」
 アイコ姉さんは笑みを浮かべながらそう言った。ドキッとした。心が読まれたのかと思った。
「もしあなたたちが今、ここから走ってあの橋を渡り、逃げ出したとしましょう。……まる一日もたないわよ。でなくとも、ここは慰安所の立ち並ぶ通りなんだから」
 アイコ姉さんは街角に立つ男を指さした。昼前だというのに必ず立っている。
「あの人も軍の人よ。仕事でやってるのか、駄賃をもらってやってるのかは知らないけれど。私たちは見張られてるんだとあんたたちも知っといたほうがいい。街にも駅にも港にも憲兵はいる。私服だから私たちにはわからない。けれどあちらには私たちが何者なのかわかる。ここは日本軍の土地なんだから、女だけで逃げ切れるものじゃないんだよ」
 運河には荷物を載せた小船を操る中国人がいた。あの船に飛び乗ったら街の外まで出れるんじゃないのかと、妄想する。そう、全ては妄想だ。
 けれど。
 汚されないために何重もの厚い壁でガードしたわたしの心が、ひょっこり姿を表した。
「姉さん、逃げたら姉さんに迷惑がかかりますか?」
「好きにするといいさ」
 チョンイはアイコ姉さんを見た。笑っていた。笑いの意味が、よく分からない。スンドギは心配そうな目で見ている。一緒に逃げようかどうしようか、逡巡しているのだ。
 あたりを見回す。だれもチョンイを見ていない。踵を返し、チョンイは駆け出した。なんの計画もなかった。そんなことを考えている余裕はない。ただただ逃げ出したかった。
 わたしは、自由に、なる!

 アイコ姉さんの言うとおりだった。
 まる一日もたなかった。
 簡単に捕まったチョンイは世界館に引き戻され、部屋に閉じ込められた。されると思っていた折檻はされなかった。カナヤマが暴力を奮っている姿を見たことがなかった。それがカナヤマのやり方なのだと、すぐにチョンイは知ることになる。
「イキがいいのがいるんだって?」
「そりゃもう、少尉さん。今朝逃げ出そうとしたところを捕まえてもらったばかりです」
「傷はつけてないだろうね。イヤだよ、キレイなんじゃないと」
「そりゃもう、少尉さん。二度とこんな馬鹿な考え起こさないように、お頼みしますよ。こいつにも元手がかかってるんですから」

 少尉が部屋に入ってきた
 少尉が部屋に入ってきた
 ぶら下げた軍刀壁に立てかけて
 革のベルトをサッと抜く
 鬼の形相
 鬼の形相
 服を脱げっ!
 早く脱ぎやがれっ!
 鬼の形相で迫ってくる
 チョンイは指があまりに震えるから
 ワンピースのボタンが外せない
 少尉のベルトが宙を舞う
 白いワンピースに血に滲む

 アイゴ少尉ニム
 もう逃げません、許してください
 アイゴ少尉ニム
 死にたくありません、助けてください
 アイゴ少尉ニム

 ワンピースはひきちぎられ、下着は剥がされ、白い背中はタテヨコナナメに赤く腫れ上がり、倒れたら髪を握って持ち上げられ、その髪を軍刀でバッサリと切られ、泣けば黙れと叩かれ、黙っていると声を出せと叩かれ、許しを乞うと日本語で喋れと叩かれた。アイゴと言うなと叩かれた。
 もう、訳がわからない。
 どれくらい痛みを受けただろう。
 少尉はチョンイの首を絞め、チョンイは気が遠くなった。気が遠くなりながら、少尉のモノが自分の中に押し入ってくるのがわかった。
 わたしはもうニンゲンではないのだ。
 ただのモノだ。
 わたしに意思は必要ない。
 わたしはどこにもいないのだ。

 意識を失いながら、チョンイはすべてを失われたと感じていた。
 もう心をガードする必要もない。もはや心も喪われたのだから。

 生きているんじゃないの? 現に生きてるじゃん。
 軽薄なケンジが言う。あの日以来、ケンジはセイの家で暮らすようになった。マネージャー、兼男優、兼セフレ、兼……監視役?
 セイの体調は思わしくなかった。あれから撮影を二回こなし、残り二回をこなすだけになっていた。それが終われば契約が終わり、無事解放されるはず。でも借金は残っている。借金がある限り、自由にはなれない。その後の人生は? AV女優を続けるか、セクキャバか、あるいはフーゾクか。チーフはAV業界だけでなく、性風俗産業にもかかわっているらしい。そこに売られるのも簡単なことだろう。
「……殺してくれない?」
「誰を?」
「あの豚野郎」
 ケンジとは何回もセックスした。一晩に複数回することもあった。朝まで眠らずすることもあった。何回しても、何も覚えていない。絶頂もなければ、苦痛もない。
 そう、わたしはまだ愛を知らないのだ。
 ことの終わったあとのタイミングをうかがってセイは言ってみたのだが、ケンジの返事はわかりきっていた。
「……怖いよ」
 このクソ野郎。なにを怯えきっているんだ。あんたもどうせチーフの奴隷だろう。反逆しない奴隷はただの奴隷でしかない……ただの奴隷でしか……。
 それはわたしも一緒だ。わたしも一緒なのだ。奴隷の日々はいつか終わると信じたい。でもどこにも確証はない。奴隷が自分のことを奴隷だと気づいてしまうと、耐え難い現実が襲い掛かる。気づかないようにしなければ、心が保てない。

 セイはケンジのモノをさすり、立てる。
「殺してよ」
「ムリだよ。チーフ、まじ怖いんだぜ」
「殺してよ。わたしとチーフ、どちらが大事なの? このままだと、わたしたちずっとこのままよ! あんたもずっとこのまま、あの豚野郎の下僕で生きる気? 大学卒業して、やりたいことだってあるんでしょう?」
「その学費だって、チーフなしにはどうしょうもならない。あの人の言うことを聞いて生きるしかない」
「これ以上堕ちるところがあるというの? もう逃げ場はない。違う?」
 そしてセイはケンジのモノを入念にしゃぶり、またがる。でも何も感じない。感じているフリをするだけだ。
 どうせ記憶さえじきに喪う。
 わたしはここにはいないのだ。

(つづく)

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