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セイとチョンイ #1

 もし、今、我々にそうしたあらゆることをする勇気がなければ、ある奴隷が聖書の中から書き直して歌にうたったあの予言が、我々の上に実現されることになるのだ。
「神様はノアに虹のしるしを与え給うた。もう、水は終わった。次は火だ!」

(ジェームズ・ボールドウィン著 黒川欣映訳『次は火だ』より)

 泡立ち立ち上っていく気泡。その先にある薄昏い蒼。頭上の揺らめく明かりは次第に遠ざかり、もう届かない。もう浮上できない。ただただ沈んでいくだけ。水面は遠ざかり、もう何も見えない。息苦しさが絶対的な死に凌駕されてはじめて、わたしは絶望に勝利する。その果てにあるのは希望、あるいは祈りか。
 そう、もう水は終わったのだ。次は火、火、火、だ。
 火……なのだ。わたしはそれを望んでやまない。
 何度生まれ変わってもなお。

 うなされる自分の声でセイは目が覚める。それはこのところの日常だったが、決して慣れることはない。額にかかる前髪に、寝間着のTシャツに、汗がにじんでいる。
 セイは夢を反芻する。夢なので実際に息ができないわけではないのだが、圧迫される苦しさが確かに胸に残っている。
 枕元にあるテレビのリモコンを手に取って電源を入れると、ブラウン管に韓国人のおばあさんが映し出され、なにごとかを必死に訴えていた。時計替わりのつもりだったが、時刻は映し出されていない。ビデオデッキの表示は午前十時を回っていた。眠れたのは明け方だから、そんなに眠れていない。番組に興味はなかったけれど、チャンネルは変えない。世界が自分独りではないとわかりさえすれば、それでよかった。
 セイはユニットバスに入り、脱衣籠に汗ばんだシャツとショーツを放り込んで、冷水を浴びる。悪い夢を追い払うように。
 しかし追い払った悪夢の背後から、現実の悪夢が追いかけてきた。
 今日は午後から撮影だった。
 ユニットバスに備え付けられた鏡が、セイの顔を映す。昏いというよりは無表情。自分を殺した顔。独りでいても本音はそこにない。押し殺さねば。悪夢を放逐しなければ。悪夢に飲み込まれたら、わたしはわたしでなくなってしまう。
 白い頬には生気がない。浮き出た肩甲骨。青い血管がにじむ胸は、豊かとはいえないが、プロダクションに言わせると大きければいいというわけでもなく、十分に魅力的らしく、そして商品価値があるのだそうだ。けれどわたしにとって、それは全く実感のないことだった。もし自分の軀のどこかを褒めるとしたら、細くて長い脚線だろうか。自分の軀のことながら、脚線美を強調するパンツスーツが好きだった。けれどあの男はわたしのバストショットを撮りながら言ったのだった。いいね、キレイだよ。需要がある……需要、需要、需要。わたしは本当にわたしなのだろうか。自分というものが考えたり感じたりするなにかだとして、でもわたしはわたしが思うままに、わたしは自分の軀を思うままにできない。需要とは、わたしの軀がわたしのものではなく、それを求める人のためにあるのだということでしかない。
 その脚の付け根に生える薄い縮れ毛、その奥にある深い谷間を指でなぞる。何も感じない。これまで何回も触られ、舐められ、挿入されたというのに、自分の軀の一部であるという実感がまるでない。それもそのはず。なぜならわたしはまだ、愛を知らないのだ。
 湯をはっていない浴槽にうつむき、しゃがみ込む。シャワーから降ってくる水が、容赦なくセイを包み込む。茶色に染めた長い髪が水をしたらせ、檻のようにセイの視界を遮る。テレビの音を大きくしておくべきだった。油断すると、孤独の中に放り込まれる。
 いやだ。と言うことすら許されないわたし。奴隷のわたし。でも奴隷じゃ生きていけないから、わたしは前を向く。平気なフリをする。自分の行為に誇りを持てなければ、死んでいるのも同じだ。だから死なないために、わたしは生きてるフリをする。

 バスルームから出ると、つけっぱなしのテレビでは桜の開花予報を流していた。濡れた軀を拭くこともなく、散らかった部屋を飛び跳ねるようにしてベランダに出た。自分の稼いだ金で借りたマンションでもなし、散らかろうが濡れようが興味はない。高額家賃はセイを縛る借金であり、それにどうせ高層マンションの最上階、誰かに見られているかもという憂慮もないのだ。カーテンを開けてベランダに出ると、眼下の河川敷には桜並木が見える。春の嵐に淡い花びらが舞い、川面に散る。セイは大きく息をつく。散って散って、失うものもなくなれば、また這い上がれるのだろうか。……いや、きっとそれはないだろう。自分でもわかっている。いまとなっては。

 思えば一ヶ月前のセイはまだわかっていなかった。
 その日、セイはケンジに契約を解除して欲しいと申し出た。ケンジはセイのマネージャーのような存在だったが、それか正式に何というポジションなのか、セイは知らなかった。
 すでに二回撮影を終えており、映像が商品として発売されるのもじきだと聞いていた。コンビニに置かれている成人向け雑誌の表紙に、多くの女性の中に紛れて自分の姿もあり、自分とは思えない媚びた姿に目眩を覚えながら、ぐんと現実が迫ってきた感じだった。
 ケンジはこれまでセイには優しかったし、この日も優しかった。拭いきれない軽薄さを伴いながらではあるが。開口一番の台詞がこれだ。
「無理だよ、そりゃ」
 セイはケンジが嫌いではない。いい男だとも思う。ちょっと垂れ目だけれども、だいぶ軽薄だけれども、時に圧もかけてくるけれども、親身にもなってくれる。
「セイちゃんさあ、考えてもみてよ。七本撮りの契約でさあ、あと五本残ってるんだぜ。違約金半端ないぜ。それさ、セイちゃんが独りで払える? アテないじゃん。このマンション借りるのもただじゃないし、それ払える? 無理でしょ?」
 セイはケンジの言うことももっともだと思う。確かにお金が必要だったし、そのために契約書にサインした。やりたくはなかったけれど、サインしなければ帰してくれそうになかったし、それになによりセイはすでに借金を抱えていて、ニッチもサッチもいかなくなっていたのは確かだった。
 あと五回エッチしたらいいだけじゃん、とも思う。でも……。
 セイはうつむいて、膝の上に乗った両の握りこぶしを見た。震えているのが自分でもわかる。このソファの上で、いつまでこうやって恐怖と闘いながらお願いし続けなければいけないんだろう。そう思うと自然に涙が出た。狭い部屋にセイのしゃくり声が反響する。
 
 その時、パーテンションの向こうから男があらわれた。角刈りで、まぶたが重く垂れ下がった、下腹の突き出た中年。知ってる、ケンジの上司だ。チーフと呼ばれていたが、それが何を意味する「チーフ」なのか、セイは知らない。
「えーと、誰だっけ、セイちゃんか。ふざけるのはやめようや。大人の世界なんだからさ、契約違反はいろんな人に迷惑かけるよ。そもそもそんな大金、払えるわけないでしょ。ちょっと考えただけでわかるでしょ」
 契約違反、契約ね。なんだかなあと、セイは思う。その契約だって、セイに言わせればむりやりだったのだ。この部屋のこのソファに四時間も座らされ、チーフは扉を塞がんばかりの圧力ででっぷりと座り、わたしに笑顔で話し続けた。そして根負けした。この部屋から抜け出すためにはサインするしかなかった。それがなんの契約書だったか、今となっては考えることさえ無意味だ。
 ここの人たちは、だれもみな言葉巧みだった。聞いていれば、私が悪かったのだと実感してしまう。この「仕事」を選んだのは自分であり、自分の「ワガママ」のために多くの人が迷惑し金銭的にも損害を与えようとしていること、そしてその負債は自分が負わなければならないのだ。
 悪いのは自分だと……そう思うと自然に涙が出た。でもできません。できないんです。そう繰り返しても詮無いことはわかっていた。どうしようもないのだ。
「セイちゃんさあ、わかってないよね。立場が。どうしたらわかってくれるのかなー。おい、ケンジ、ビデオカメラと三脚持ってきな」
 ケンジは一瞬、露骨に嫌そうな顔をした。それをチーフは見逃さなかった。チーフはすばやくテーブルの上の灰皿を掴み取り、ケンジの頭を殴打した。
「オメエはなにかと偉そうなんだよ。大卒だかなんだか知らねえが。黙って言うこと聞きやがれや!」
 ケンジはもんどり打って倒れたが、すぐに頭を押さえ立ち上がった。チーフから目を背け、うつむきながら部屋の奥に行くと、三脚にビデオカメラをセッティングし始めた。
 
 瞬間湯沸かし器のようなチーフの暴力で、部屋の空気が一変した。セイはケンジを見るが、ケンジはセイと視線を合わせようとしない。なぜケンジが助けてくれるかもしれないなどと、一瞬でも錯覚したのだろう。ケンジがセッティングしたビデオカメラのレンズが、ほの昏く光る。昏いのはこの男の眼も一緒だ。なんの感情もない。近づいてくるチーフの眼を見ながら、セイはそんなことを思う。これから自分に起こることはもうわかっていた。
「いつまでも甘やかされてると思うなよ」
 髪の毛を掴んでひっぱりあげられる。チーフの額がセイの額とぶつかり、横から平手でぶん殴られる。頬ではなく耳の後ろ側だ。一発、二発、三発。セイはソファに横に倒れ込む。その顔面すれすれに拳が掠り、ソファの背もたれが深く沈んだ。そしてチーフが耳元でささやく。
「ばっかやろ。少しは抵抗しやがれ。レイプものの商品価値が下がってしまうじゃねえか」
 地を這うようなおぞましい声だった。そこで初めて恐怖感が現実のものとなった。殴られてもまだ現実でなかったものが、声に弾かれる。この男が心底嫌いだった。
 男の軀の重みを跳ね除けて、部屋の外に駆け出そうとしたが、強い力でソファに引き戻され、横にされる。相手の胸ぐらを力いっぱい叩いたら、手錠をかけられ、頭上に固定された。それでも足をばたつかせて抵抗したら、腹に一発喰らって力がぐったりと抜けた。抵抗しても、泣き喚いても、相手の嗜虐心に火をつけているだけのようだった。抵抗は無意味なのか。
 そのうち「なにもできない」から「なにもする気になれない」に変化した。自分の軀が自分のものでなく、自分の意思の及ばないただの肉の塊に変化する。男の支配に屈したわたしの軀はわたしのものではなく、だから屈したのはわたしではなく、わたしではないわたしだ。
 わたしでないわたしが見る景色は、わたしに覆いかぶさった、もはや気持ち悪いとさえ思えない男の軀。そのアンダーシャツから、自分の脚の太さほどもある腕が生えていて、その肩から腕にかけて刻まれた、蒼い龍がうねる。うねって昇り、カーテンから白い天井に駆けぬける。ソファのきしむ音のはるか向こうから、太鼓の音が聞こえる。トン、タタン。トン、タタン。トン、タタン。
 ああ、これはなんの運命か。受け入れ難い、全く受け入れ難い。運命でないとすれば、わたしが悪いのか。
 龍はわたしを見ない。長い尾をくゆらせながら、ただ天井を影のようにたゆたうだけ。地の底にあるわたしの苦しみを、龍は知らない。ただそこにあるだけ。誰も、わたしを知らない。
 天井が砕けそうだ。

 あの日のことは記憶から消した。消そうと決めたから。
 セイは心と地続きの軀を自分のものとは思わないように、あったことをなかったことのようにした。記憶はあっても、それは自分の体験とは切り離して考えた。それはもはや難しいことではなかった。
 それでも気持ちがひび割れた心から溢れそうになるとき、誰かを支配した気になって自分の優位性を確かめる。
 チーフがセイを凌辱し終えると、同じことをケンジに命じた。自分ひとりの性欲を満たしただけでは物足らないのだ、この男は。ケンジはこうなることがわかっていたようで、明らかに気の進まない顔をしていたが、逆らえないことはわかりきっていた。
「手錠が痛いです。外してください。優しくするから」
 セイは自分で何を言ったのかわかっていない。自分でない誰かがその言葉を口にしたのだ、きっと。
 そしてセイはその手でケンジの服を脱がせ、愛撫して立ててみせ、あまつさえ嬉しそうな顔までしてみせた。それは考え抜いて行った行動でもなければ、もちろん本能などいったバカバカしい言葉で包括できるものでもなく、ただただ自分でないからできたことだった。
 そして撮影を終えると、セイはチーフにこう告げたのだった。
「残り三本の撮影、相手はみんなケンジでお願いできませんか? どうせ男優なんて、モノがついてさえいれば皆一緒なんでしょ」
 
 サイテーだ、と、セイは独りごちる。桜並木に小学生の集団が歩いているのが見えて、高層マンションから見下ろす自分がたまらなく嫌になる。私はここから降りていってあそこに自由に行くことすら、ままならないのだ。降りていこうと思えばいけるのかもしれないけれど、けれどできない、絶対に。
 これから五本目の撮影だった。一ヶ月前の事務所での出来事を他人事のようにしか思うことができず、自分のこれからの行動を考えるときに、相手がケンジだからとしか思うことができない自分を、客観的な自分が見ている。サイテーな自分。醜悪とすら思う。でもそれは、終局的に自分のことではないから大丈夫だ。
 クローゼットからジーパンとティーシャツを取り出して着る。その前に、お気に入りの下着を取り出すことは忘れない。今日はフリルのある、淡いイエローのブラとパンツ。お揃いで買った、それなりの値段のするもの。ダサい服を着て行っても、撮影ではスタイリストさんが衣装をそろえてくれている。でも下着までは用意してくれない。どうせ見られるのならば、とセイは思う。
 そして靴を履く。雨の日用の長靴。ブーツに似せた、お気に入りの。そしてセイは思い起こす。一ヶ月の出来事を通り過ぎて、遠い遠い、遥かに遠い過去のことを。
 
 そういえば昔は雨の日に外を出歩くのが好きだった。びしょぬれになるのも構うことなく、玄関を開けて外に走り出す。
 稲穂の波。頭上は薄暗いけれど、風が心地いい。わたしは駆ける。母がわたしに家事を命じたが、家事なんて大っ嫌いだ。そしてわたしは妹を助けたい。同じ日に生まれた双子の妹、スニのために。わたしと違って勉強が大好きなスニのために。だから学校なんて行きたくない。早く働きたい。
 そして田圃の向こうにある小川に飛び込む。服のまま。どうせ濡れるのだ。盥で腰湯をするよりも、小川の流れに身を任せるほうがよっぽど気持ちがいい。
 そして川面から顔を出したとき、そこに見慣れない男性が土手にいた。
「仕事があるんだけれど、どうかな。縫製工場で働いて、夜は学校で勉強もできるよ。どう、興味ある?」
 思えばそいつもでっぷりした、昏い眼をした男だった。龍の刺青はあっただろうか、憶えていない。

 スニ、あなたならあのときどうしたの?
 バカな姉だと罵るかしら。
 でもわたしには、選択肢が残されていたのかさえ、いまになってもわからないのよ、スニ。

(つづく)


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