高校時代
20200815
「群れずに群れでセッションする」っていう僕自身の、暫定的な、理念のB面。
自分で決めた理念は、かつての自分を救いたくて、つくってたんだなと、思った。
そして、家・家庭・家族、ある一つのコミュニティにいつづけることに苦しんでいる人の救いになるのかもとも思う。
僕の高校時代の話から。
さびしい、かつ、つまらなくてしょうがない高校生時代を送っていた僕は、TSUTAYAの試聴コーナーが救いだった。
飽きることなくいくらでも曲を聴き漁れた。
ある日TSUTAYAで友だちに会った。
中学まで同じで高校でわかれた友だちだった。
「何聴いてるの?」とたずねられて、
「うーん、いろいろ」と濁しておくと、
「洋楽とか色々聴くのやめてよ笑」と言われた。
「そうね笑」と適当に答えた。
ゴリゴリに嘘だった。
その当時僕は、6〜70年代の洋楽ロックばかりを聴き漁っていた。ベルベットアンダーグラウンドやルーリード、デイビッドボウイなど。
なんとなく、友だちのまま、“群れて”いるために、ついた嘘だった。
“群れる”っていうのは、具体的なモノゴトによった仲間意識なんだと思う。近視眼的というか。
なにをしてるかとか、どこに住んでるとか、なにを目指してるとか、そういうところでの共通項をくくって仲間になること。
丸とか四角とか、図形で括れちゃう感じ。
“群れずに群れでいる”っていうのは、具体的なモノゴトよりも抽象度が高いというか、俯瞰しているというか。図形で括るっていうよりは、座標であり星座。
その抽象度がもっとあがっていくと、生きとし生けるモノ、存在するモノみたいになっていく。
あの人も僕も私もあの木も鳥も川も海も、生きてる、呼吸してるっていうところでの共通項をくくって仲間だと思う。
どんなのがいいとかじゃなくて、いろんな位相を行き来できればいいのだけど、“群れずに群れる”って方が忘れやすい。のかなと思う。もしくは、意識しづらいように教育されてる。
ドリームキラーみたいな、なにかをしようとしたりしているときに邪魔をしてくる存在は、“群れてようぜ!”って言ってきてるんだと思う。嫉妬からか、わけわかんないから不安からか、はわからない。
ただ、いずれにせよ、“私の今いるコミュニティから出ていくなよ”って言ってるだけなのかなと思う。
もし変わりたいと思っているのであれば、ドリームキラーが現れたってことは感謝したらいい。
わたしの行動は、今いるコミュニティから離れて別の場所へ行こうとしているということだから。
変わっていくっていうのは、どれだけ自由に、コミュニティの抽象度を行き来できるかってことではないか。
所属しているコミュニティの数が重要でないこともわかる。
本人の眼から、どれだけコミュニティのレイヤーが認識できるか。
慈悲の瞑想は、そのコミュニティの抽象度の行き来についての、理解を助けるのだと思う。
私も、私の親しい人も、私が嫌いな人も、私のことを嫌いな人も、生きてる命すべて、みんな同じやんってことに注意をむけていく。
たとえば、家族。
血縁とか、一緒の家に住んでるとか、家計を一にしているとかは、子どもから見れば、無条件に与えられた感じ。“群れる”。
別に悪くないけどそれだけじゃ辛くなる。すくなくとも僕は実家にいるっていうのはそういうことだった。
そこに、同じく命を持ったモノ同士で星座をつくりあげる。“群れずに群れでいり”意識というかネットワークが、レイヤーにでもなっていて行き来できたら、どんなによかっただろう。
人は誰かといたい。僕もそう。安心できる。
でもそれが執着に変わると、“群れてる”んだと思う。「洋楽聴くなよ」と言われて、「うん」と答えた、かつての僕みたいに。
“群れてる”ことを心地よく思える人はそれでいい。
でも苦しんでる人もいる。
そういう人は離れればいい。
“群れずに群れで”生きていく方法は必ずある。
そういうキッカケを瞑想だったり、自分の日々の生活の姿でみせる。
それがきっと、昔の自分を助けることになると願って、今日ものらりくらり味わって生きていく。