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友(まど・みちお『一年生になったら』)
20210826
僕はまど・みちおさんを敬愛している。
詩も、まどさんの描く絵も、手書きの文字も、とても好いている。
そんななかで長年、どうして「友だち100人できるかな」と歌ってるんだろうと、疑問だった。疑問というか、嫌悪に近い感覚だろうか。
まどさんともあろう方が友だちをいっぱいつくることを推奨しているのだろうかと、勝手に期待して勝手に幻滅したりしていた。ようは友だちのいない妬み僻みなだけです。
それがふと、あっ違うんだと気づいた気がした。
あの詩には、友だちをつくるとは書いていなかった。友だちはできる、のだ。
100人って数字にしたって、小学校の中で、なんて書かれてない。世界中の何十億人と見渡して、たったの、とっても貴重な100人ってことかもしれない。
もしくは、人ではなく、モノに人格をみてる可能性もある。石や風や水や、万物。
一年生にしたって、小学校なのか怪しい。あくまで、人生のはじまりとしての一年生ってこともありうる。何かを新しくはじめたり、リスタートしたり。生きてるうちに、一年生は何度だってやってくる。
そんな都合のいい可能性に想いを馳せる。
仲間も友だちもできるものであって、つくるものではない。
まして募るなんてことでできるのは党派だけなのだろう。ある信条のもと、徒党を組み、群れる。そして蒸れちゃう。
各自が心地よいままに生きる。その心地よさが実現可能な、最小限の環境整備をする。そんな姿のままで友ができる。
結局のところ、生きることはそんなことに尽きるような気がする。
当然、その心地よさ同士は、ぶつかることもある。折り合いがつかない箇所が出てくる。そこで政治や倫理が必要になる。人間同士だけでなく、有機物や無機物との調停原理も含まれる。
とはいえ、それはぶつかりはじめて検討すればいいことで、先回りして、失敗しないよう手を打つようなことでもない。例外は常にある。というか例外しかない。それらに対して、その都度のベストを各々がつくりあげていく。
相手のためのフリした自分のためより、自分のためを突き詰めた結果として他人のためになることの方が、誠実だと僕には思える。し、そうありたいなあと想う。
そんなことを、まどさんから、急に教わった気になった。